No.11 February, 2000

Series


歴史の中のエズラ・パウンド 
第11回
 
第2部 モダンエイジ

第8章 大戦
(3分載の1,Section 1-2)




 一九一四年七月二八日、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。八月一日には、ドイツはロシアに対して開戦し、続く三日にはフランスに対して開戦した。八月四日になると、ドイツ軍のベルギー侵攻により、イギリスがドイツに対して開戦した。

 ドイツはモロッコの権益やバルカン半島への進出をめぐってロシア、フランスとの緊張を高め、さらに工業製品の輸出国としてイギリスと地位を争っていた。ヨーロッパの勝者、世界の覇者を決めるための戦争の勃発は、多くの人々が予感していた。

 ヨーロッパの社会主義勢力「第二次社会主義インターナショナル」は反戦を唱えていたが、戦争への強い社会的衝動の中で、戦争を目前にして国益擁護の立場へ屈していった。ドイツ社会民主党では、反戦を貫こうとしたのはローザ・ルクセンブルグらわずかの党員だけになり、戦争が始まると投獄された。フランスでは、平和路線を貫こうとしていた社会党のジャン・ジョレスが七月三一日に暗殺された。

 イギリスでも人々は戦争への衝動に駆り立てられていた。『第一次世界大戦と社会主義者たち』(1)によると、ドイツに宣戦布告した二日前の八月二日、社会主義者たちが前々日に呼びかけて、全国一六カ所ほどで開いた反戦集会の中心会場となったロンドンのトラファルガー広場は、大群衆に埋め尽くされた。労働党のケア・ハーディーは、その群衆を前にイギリスが中立の立場をとるべきであると訴えた。しかし、翌三日、下院で、イギリスにはフランスを防衛する義務とベルギーの独立を守る必要があるという政府の立場を表明したアスキス自由党内閣の外相、エドワード・グレーに反駁しようとして立った労働党のラムジー・マクドナルド(後に首相)は、敵意に囲まれていることを知り、演説を短く切り上げてしまった。

 バーナード・ショウらのフェビアン協会も戦争に賛意を表明し、パウンドが寄稿していた『ニュー・エイジ』も戦争を支持した。

 ドイツがフランスに対して宣戦布告した八月三日、ミュンヘンのオーデオン広場は駆けつけた群衆でいっぱいになった。広場を埋め尽くした群衆の中にはまだ無名だったアドルフ・ヒトラーもいた。群衆は、フランスに対する宣戦布告を歓声をあげて支持し、熱狂して数日間、夜中までドイツ精神を称揚する歌を歌い続けたという。シュレーターは、トーマス・マンの伝記の中で「この興奮に加わったのは無知な大衆ばかりではなかった」(2)と書いている。

 兄のハインリッヒ・マンやスイスに引退していたロマン・ロランが反戦の立場をとったのに対し、トーマス・マンは、一九一二年のノーベル文学賞受賞者ゲルハルト・ハウプトマン、詩人のシュテファン・ゲオルゲらと共にドイツの立場を正当化する立場に立った。開戦当時、彼は兄のハインリッヒ・マンに宛てた手紙の中で「偉大な、根本的に気高い、厳粛ですらある民族戦争」と書いた。(3)

 ゲオルゲらは、戦前からドイツ精神とドイツ文化の特殊な地位について語り、西側の「文明」に対する「ドイツ的本質」の防衛戦としての戦争の肯定に行き着いた。トーマス・マンは、それを追った。彼は、『戦時の思想』で、ドイツ精神が保持するものを「文化」とし、これを「フランス的理性」、「イギリス的偽善」などと表現された西側の「文明」と対立させた。(4)

 『評伝ジャン・コクトー』にキムらが書いているところによると、フランスでは一九一四年六月末、芸術家たちのパトロンであったミシア・エドワーズのサロンで、作曲家のエリック・サティがロシアバレー団のディアギレフに自作曲をピアノで弾いて聞かせていた。そこへサラエボの暗殺事件が伝えられるとサティは「戦争は不可避」といい、ミシア夫人は「ああ神様、どうか戦争が起こりますように!」と考えたという。そして、ミシア夫人のサロンに出入りしていた二五歳のコクトーは、戦争が近づくと部屋に連合国側の国旗を飾り立てた。戦争が始まると、ミシア夫人は救護班を組織して前線へ向かい、コクトーは入隊を志願したが不許可となり、しかたなく救護班に入って前線へ出た。(5)

 イタリアでは、中立派と参戦派が対立していたが、マリネッティは未来派の仲間たちとオーストリアの国旗を燃やす儀式を行って騒然と参戦主義を表明した。そして一九一五年五月にイタリアが参戦すると、マリネッティは志願兵として自転車義勇兵大隊に入隊し、彼が負傷したときにはダンヌンツィオが赤いバラを送ったという。(6)

 そのダンヌンツィオは、イタリアの参戦にあたって大きな役割を果たした(7)。彼は、多大な負債を抱え、その債権者たちからの追及を逃れるために一九一〇年にフランスへ逃亡していた。戦争が始まると、かねてから反ドイツ=オーストリアの立場をとり、ラテン民族の優越性を唱えていた彼は、フランスやイタリア、さらにアメリカの新聞に頻繁に寄稿し、反ドイツ=オーストリア的信念を述べ、イタリアの参戦を訴えた。新聞を舞台にした彼のこうした活動は、イタリアの参戦派を鼓舞しただけでなく、フランス政府からは反ドイツキャンペーンに役立つ人物とみなされるようになった。彼は、そうした言論活動によって、フランスの内務相から援助を受けたと見られている。

 ガリバルディの千人隊の記念碑がジェノアに立てられることになり、その落成除幕式に招かれたのをきっかけに、彼は一九一五年五月にイタリアへ帰り、その除幕式で戦争を呼びかける扇動的な演説を行った。その声は「イタリア半島の隅々にまでこだまし」、イタリアの中立にとどめを刺したといわれている。同じ月にイタリアが参戦すると、彼は、「危険は荘厳な人生の軸である」という自分の言葉を実践するかのように志願して飛行士になり爆撃手として活躍した。一九一六年に悪天候の中での不時着によって右目視力を失ったために一度は陸軍に所属したが、一九一七年には医師の忠告を無視して再び飛行機に乗り、二〇機の編隊によるポーラ港空襲の計画を立てて指揮した。さらに一九一八年には、ウィーン上空を飛んで宣伝ビラをまくという計画を成功させ、その勇敢な行動は、イギリスの新聞でも大きく報じられた。

 イタリアには、ダンヌンツィオと並んで、もう一人の強力な参戦論者がいた。ムッソリーニである。一九一二年、ミラノで発行されていた社会党機関紙『アヴァンティ』の編集長になったムッソリーニは、戦争が始まると参戦主義者になり、そのために『アヴァンティ』の編集長の職を解かれ、社会党も除名になった(8)。しかし、彼は、保守系新聞の所有者や参戦主義的大産業資本などから資金の提供を受けて新聞『イル・ポポロ・ディタリア』を新たに発行し、これを参戦論の立場に立つ最大部数の新聞にして、イタリアがオーストリアに宣戦を決めるに際して決定的な役割を果たした。そしてイタリアが参戦するとムッソリーニは、狙撃連隊に入隊した。

 一九一七年に演習中の事故で重傷を負うと、彼は退役して再び『イル・ポポロ・ディタリア』で筆をとり、国家主義、領土併合を主張した。彼にとって、戦争は飛躍への大きな機会であった。

 戦争の展開は急であった。開戦から一カ月も立たない一九一四八月二六日には、東プロイセンのタンネンベルクでドイツ軍がロシア軍に大勝し、九月六日に始まったフランス軍とドイツ軍の「マルヌの戦い」では、マルヌ河を越えていたドイツ軍はエーヌ河まで押し戻され、フランスが勝利した。

 一九一五年五月七日には英豪華客船ルシタニア号がドイツのUボートによって爆沈され、一一九八人が死亡した。さらに五月三一日には、ロンドン上空にドイツの飛行船ツェッペリンが飛来し、一五四個の爆弾を落としていった。ロンドン空襲は、この年だけで二〇回、一九一八年までには五一回に及び、死者五一人、負傷者一三九五人に及んだ。

 一九一六年になると、戦争はすでに二年になり、悲惨な様相を呈するようになっていた。ベルダンの戦いではフランス軍三七万七千人、ドイツ軍三三万七千人が戦死した。五月にはデンマークのユトランド半島沖でイギリス艦隊とドイツ艦隊が会戦した。七月にはイギリス軍が北フランスのソンムでドイツ軍を相手に苦戦し、一一月まで続いたこの会戦では両軍合わせて一一〇万人の死傷者を出した。

 第一次世界大戦は、近代化によって経済的に大きく飛躍しようとしていた国家間の利害の衝突という帝国主義戦争であり、トーマス・マンのいうようなドイツ文化圏の「文化」とイギリス・フランス文化圏の「文明」の衝突という要素も持っているかにみえた。しかし、ハナ・アレントは、この大戦は何よりも「階級の瓦解と大衆化の壮大な序曲」(9)であったと書いている。

 労働者階級を代表する社会主義政党の譲歩も得て始められ、国民を総動員したこの戦争が終われば、勝ち負けに関係なく、労働者階級にはその報奨が支払わなければならなかった。国家の帝国主義的な行動の背景には、ブルジョア階級の欲望だけでなく、近代産業によってもたらされる富のより多くの分配にあずからねばならないとする大衆の圧力があったといえるのだろう。そうした意味では、この戦争は、「大衆の興隆」という時代のエネルギーに当初から突き動かされていた。

 知的エリートたちも、この戦争が始まるに際して激しい衝動に突き動かされていた。アレントは、「エリートたちは、自分たちが馴染んできた全世界と全文明が『鋼鉄の嵐』(エルンスト・ユンガー)の中で崩れ去るのを期待して、欣喜雀躍、戦場に赴いた」(10)との見方をしている。彼らが、そうした姿勢をとったのは、「人為的な安泰と、見せかけだけの文化と、看板だけに成り下がった『価値』のこの偽りの世界全体が廃虚と化すのを見たいという切望以外には、ほとんど何の願いも抱いてこなかった」(11)からである。「戦争を賛美しよう―この世唯一の健康法を」(12)と暴力を賛美したマリネッティの『未来派宣言』や「生きるための世界のみを欲する。そして我々を通り抜ける荒々しいエネルギーを感じることのみを欲する」(13)と叫んだウィンダム・ルイスの『ブラスト』の宣言は、ヨーロッパの若い知識人たちのこうした大戦前の精神的雰囲気を如実に表したものであったとみることができる。

(写真は、Cork, Richard : A Bitter Truth, Avant-Garde Art and The Great War, Yale University Press, 1994の表紙カバーに使われている Paul Nash, Void, 1918, National Gallery of Canada, Otawa, Transfer from Canadian War Memorials, 1926の部分)



 パウンドは、この戦争を同類の争いであるとして軽蔑的に見ていた。そして、「この戦争は一時しのぎのものであり、大きな病の一つの徴候ではないのか」とも見ていた。しかし、一九一五年になると、彼はドイツを非難し、アメリカの参戦を望むようになり、戦争に行くことを志願した。(14)

 アメリカ人である彼の志願は受け入れられず、戦争は彼を大きな渦の中に巻き込むことはなかった。

 ロンドンで、彼は、一九一四年一一月に、フェノロサのノートをもとに世阿弥の『砧』と『羽衣』を『クォータリー・レビュー』に発表した。そして、冬になると、妻のドロシーを伴ってイェイツと共にストン・コテージに滞在し、フェノロサの中国詩の翻訳を読むことに打ち込んだ。

 一九一五年三月には、『ポエトリ』にフェノロサ訳を書き直した詩「流浪者の手紙」を発表し、四月には、一〇編の詩をまとめた『キャセイ』(中国という意味の古語)をマシューズから出版した。

 『キャセイ』にまとめられたのは、「長干行」を原詩とする「川船商人の妻―ある手紙」(15)など主に李白の作品である。冒頭には、「主に中国の李白の詩により、故アーネスト・フェノロサのノートによる、解釈は森、有賀両教授による」と書かれている。有賀長雄の通訳による森槐南の講述を記録したフェノロサのノートは、漢詩をそのまま漢字で書き写し、次に音声を記し、さらに漢字の一字ごとの意味を英語にし、最後に行ごとの翻訳を記していた。パウンドはこれを、英語の自由詩に変えた。

 パウンドの技巧と漢詩の美しさが結合したこの詩集には、『タイムズ文芸付録』などから賞賛の声が上がった。エイミ・ロウエルもこの詩集を読んで強い印象を受け、イマジズムのときと同じようにパウンドを追い、東洋趣味の詩を書こうとするようになった。

 『源氏物語』の訳者として知られるアーサー・ウェイリーら東洋文学の専門家からは、パウンドの訳の不正確さを指摘する声も上がった。しかし、賞讃する側は、そうしたことにとらわれる必要はなく中国詩の香りを持ったオリジナルな創作ととらえればよいと反論した。ウェイリーも一九五〇年の著書『李白』では、李白の「旧遊を憶いてショウ郡の元参軍に寄す」を、パウンドが『キャセイ』の中で「流浪者の手紙」と題して「みごとに意訳した有名な詩」(16)としている。『キャセイ』の中の二篇は、岩波文庫の『アメリカ名詩選』(17)にも収められている。

 有名なパウンド研究者であるヒュー・ケナーは、『キャセイ』は「戦争詩」の性格を帯びていたと書いている。パウンドは、フェノロサの膨大なノートから、国に置き去られた女たち、遠地への出発、荒涼とした最果ての地へ防備に出ている兵士を歌った詩など、戦時の人々の気持ちに訴える詩を選んだというのである(18)。そうした時代的な理由によっても賞賛を得たに違いないが、なによりもこの詩集は、東洋のイメージを英語によって見事に表現しているとして高い評価を得た。

 一九一六年になると、パウンドは、フェノロサの能の翻訳を本にまとめ、イェイツの序文を得て出版した。日本語の表記についてはアーサー・ウエイリーが協力した。また、同じ年に、パウンドは能の翻訳集をさらに充実させてマクミラン社から出版した。日本では、野口米次郎がすぐにこの作品を評した。『学燈』に寄稿した書評では、フェノロサの日記から能研究に関する箇所を抜粋している点が「一異色を放っている」としながらも、日本語の表記の誤りが多く目に付くことや日本語に説明がないことに苦言を呈し、「パウンドにこうゆう一種の奇癖がある詰まり学者振る奇癖!」のせいであるとしたという(19)。

 イェイツはパウンドの能の翻訳に刺激され、能の精神を汲んだ劇作『鷹の井戸』を書いた。この作品は四月に、ロンドンの芸術家のパトロンであったキュナード夫人の邸宅で上演された。当時ロンドンに住んでいた日本人舞踊家の伊藤道郎が、その鷹の舞を踊った。(20)

 伊藤は一八九三年生まれで劇作家・演出家、千田是也の兄である。一九一四年ドイツに留学したが、戦争が勃発したためにロンドンへ移った。彼はロンドンでゴーディエ=ブルゼスカと友人になり、彼を通じてパウンドとも知り合いになった。一九一六年にはアメリカへ渡り、ニューヨーク、ハリウッドなどで舞踊学校を作り、一九四三年に帰国して日本でも舞踊学校を設立した。

引用文献

1) 西川正雄、第一次世界大戦と社会主義者たち、岩波書店、一九八九。p.194-195.
2) シュレーター、クラウス:トーマス・マン(山口知三訳)、理想社、一九八一年(原著一九六四年)。p.114.
3) ibid.,p.115.
4) ibid.,p.117.
5) キム、ジャン=ジャック、エリザベス・スプリッジ、アンリ・C・ベアール;評伝ジャン・コクトー(秋山和夫訳)、筑摩書房、一九九五年。p.63-70.
6) ティズダル、キャロライン;ボッツォーラ、アンジェロ:未来派(松田嘉子訳)、PARCO出版、一九九二年。p.273-277.
7) ダンヌンツィオの伝記的記述は、Woodhouse, John : Gabriel D'Annunzio, Defiant Angel, Claredon Press, 1998.とフェルミ、ローラ:ムッソリーニ(柴田敏夫訳)、紀伊国屋書店、一九六七年によった。
8) ムッソリーニの伝記的記述は、主にフェルミ、op.cit.によった。
9) アレント、ハナ:全体主義の起源(大久保和朗ほか訳)第三巻、みすず書房、一九七四年。p.44.
10) ibid.p.43.
11) ibid.
12) 高木久雄ほか編:表現主義の理論と運動(ドイツ表現主義五)、河出書房新社、一九八八年。p.24.
13) Lewis, Wyndham(Ed.) ;Blast 1, Black Sparrow Press, 1992.p.7.
14) Stock, Noel : The Life of Ezra Pound(An expanded edition), North Point Press,1982. p.173.
15) 題名の訳は、亀井俊介、川本皓嗣編:アメリカ名詩選、岩波書店、一九九三年。p.181による。
16) ウェイリー、アーサー:李白(小川環樹、栗原稔訳)、岩波書店、一九九四年。p.18.
17) 亀井、川本編、op.cit.
18) Kenner, Hugh: The Pound Era, University of California Press, 1971.p.201-202.
19) 山口清一:フェノロサ、日本文化の宣揚に捧げた一生、三省堂、一九八二年。下巻、p.171-172.
20) Longenbach, James : Stone Cottage, Pound, Yeats, and Modernism, Oxford University Press, 1988.p.219-221.

 この章では、パウンドの伝記的記述は、Stock, Noel : The Life of Ezra Pound (An expanded edition), North Point Press, 1982.とCarpenter, Humphrey : A Serious Character, The Life of Ezra Pound, Houghton Mifflin Company, 1988. を基本にした。また、第1次世界大戦史は、主に、小松左京ほか編:二〇世紀全記録、講談社、一九八七年;大野真弓編:イギリス史(世界各国史一)、山川出版社、一九九〇年によった。


エズラ・パウンド関連サイト
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~hishika/pound.htm: Ezra Pound (神戸大学文学部助教授・菱川英一氏による英文サイト。パウンドの肖像写真、主要文献、年譜、関連サイトへのリンクなどが掲載されています。主要英米詩人についての情報を得るための同氏作成サイトにリンクしています。)


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