No.1 February 1999
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歴史の中のエズラ・パウンド 第1回
プロローグ
敗北の日
1
一九四五年四月、ヨーロッパでは戦争は終局を迎えようとしていた。三月二三日に連合軍がライン河を渡河したあと、四月一五日にはソ連軍がベルリンを攻撃し、戦局の悪化によって、ドイツはすでに逃れようのない窮地へと追い込まれていた。ドイツの庇護を受け、かろうじて存続を維持していたイタリアのファシスト政権も潰え去ろうとしていた。
その一年半ほど前の一九四三年夏、ファシスト政権は、すでに一度崩壊していた。その年の七月、連合軍がシチリア島に上陸するとファシスト政権は動揺し、七月二四日、ムッソリーニの執務所であるヴェネチア宮で、政権の最高議決機関であるファシスト大評議会が委員の要請によって三年半ぶりに開かれた。夕刻から始まった会議は真夜中まで続き、「国王が軍の最高指揮権を掌握し、あらゆる決定の発議権を確保する」とする動議が提出され、賛成一九、反対七、棄権二によって採決された。
翌日未明、会議が閉会すると、ムッソリーニは自宅に戻って休息をとった後、午前九時頃ヴェニチア宮に戻り、いつもと同じように執務についた。夕刻、会議の報告のために国王ヴィットリオ・エマヌエル三世の私邸を訪れたムッソリーニは国王が自分の側に付いてくれるものと期待していた。しかし、国王はムッソリーニを解任し、身の安全を確保するという名目のもとに逮捕した。
ムッソリーニに代わって首相に任命されたバドリヨ元帥が率いる政権は、連合軍がイタリア本土に上陸したあと、九月三日に連合国と休戦条約を締結した。しかし、その休戦条約は戦争の終結を告げるものではなく、国王とバドリヨ首相は政権の所在地を南部のブリンディジに移し、一方ドイツ軍はまだ連合軍の侵攻が及んでいない北部イタリアでイタリア軍を武装解除し、代わって防衛体制を固め抵抗を続けた。さらにドイツ軍はヒトラーの命令によって九月一二日に、ローマ東方の山地にある山荘に監禁されていたムッソリーニをグライダーとパラシュートで降下した特殊部隊によって救出し、傀儡として復権させて、北イタリアのサロでイタリア社会共和国(サロ共和国)の樹立を宣言した。そうしてムッソリーニはよみがえり、ドイツの庇護を得ながら、ファシスト政権の存続を図った。
しかし、連合軍は北上を続け、一九四四年六月にはローマを陥落した。さらに連合軍の侵攻に呼応して、サロ共和国内ではムッソリーニとドイツ軍の支配に対してパルティザンの抵抗運動が活発化し、一九四四年八月にはパルチザンによってフィレンツェが解放され、ファシスト政権は追い詰められていった。
国民解放委員会の指導によってパルチザンがドイツ軍に対して総蜂起したのは一九四五年四月二五日である。パルチザンはその二日後の二七日、愛人クラレッタ・ペタッチと共にドイツへ逃亡しようとしていたムッソリーニをスイス国境に近いコモ湖付近で逮捕し、翌日二人を銃殺刑に処した。二人の死体はミラノのロレート広場に移され、四月二九日朝、集まってきた群衆を前に逆さ吊りにされた。独裁者の無惨な最後は、二十数年間続いてきたファシズムの終わりを象徴していた。
北イタリアのドイツ代表部が、イタリアの無条件降伏を受け入れたのはその数日後の五月二日である。その五日後の五月七日、ドイツ軍は、フランスの連合軍軍令部で、無条件降伏の文書に署名、ヨーロッパでの戦争は終わりを告げた。
2
サロ共和国が崩壊しようとしていた頃、詩人エズラ・パウンドは、北イタリアのジェノア近くのリゾート地、ラパロ郊外の丘の上サンタンブロジオにある愛人オルガ・ラッジの家で、孔子の『大学』を翻訳しながら、動静をじっと見守っていた。彼はアメリカ人だった。
連合軍の侵攻が迫ってきたために、ラパロの海岸に立つアパートから退去させられた彼は、イギリス人である妻のドロシーと共に、ラッジの家へ移り住まわせてもらっていた。妻、愛人という二人の女性の同居によって重苦しい緊張が漂っていたに違いないその家で、三人は敗戦を間近に控えた苦境に静かに耐えていた。
戦争が始まっても、パウンド夫妻も、やはりアメリカ人であるラッジもイタリアを去らなかった。それだけでなく、パウンドは、故国アメリカとイタリアが戦争を続ける中でイタリアの側に立ち続け、アメリカやイギリスへの非難を強めていった。
ローマからの反米的な宣伝放送に協力することによってファシスト政権に加担したとして、米国政府はすでに一九四三年七月に、反逆罪でパウンドを起訴していた。彼と二人の女性にとって、イタリアの敗北は自分たちの敗北でもあったろう。連合軍の勝利によって大きな影響を受けるのはイタリアの運命だけではなく、彼ら三人の運命も大きく変えられるに違いなかった。
パウンドがラパロに住み始めたのは、一九二四年、三九歳の時である。一九〇八年にロンドンへ移住した彼は、そこでW.B.イェイツをはじめとするロンドン文壇の主導的な詩人、作家たちと交友し、彼自身も、のちにモダニズムと呼ばれるようになった文学運動の主導者として活躍し、新しい詩の世界を切り開いた。
しかし、第一次世界大戦後の荒廃した時代の政治経済状況と精神状況の中でイギリスへの失望を深めた彼は、一九二〇年代の初めに、活発な芸術活動を取り戻しつつあったパリへ移り、さらにイタリアに移り住んだ。ロンドンやパリの喧噪から遠く隔たった地中海岸の小さな町では、中世やギリシャ、ローマに関心を向けた静かな生活がふさわしかったのかもしれないが、彼はそこで激動する時代と共に生きようとした。
彼が移住した時、イタリアはすでにファシズム国家になっていた。彼がイタリアに移住した動機はファシズムに対する関心ではなかったとされているが、イギリスに失望し、文学と政治経済の関係に強い関心を持つようになっていた彼が、ファシズムに無関心でいることはできなかったろう。次第にファシズムへの支持を強めていった彼は、やがて、そのイデオロギーに夢を託すようにまでなっていった。
ヒュー・ケナーの『パウンドの時代』(1)によると、北イタリアのドイツ代表部が降伏した日の前日、五月一日の朝、パウンドはきちんとした身なりをして町へ下りていき、アメリカ兵と話を交わした。しかし、アメリカ国務省に伝えたい話があるという彼の言に取り合う者はなく、彼は坂を上って帰っていった。
翌五月二日、彼は、ラッジの家で机の上に『四書』を広げ『孟子』の翻訳に取り組んでいた。ロンドンにいた時から中国や日本の文化への関心を持ち続けてきた彼は、ファシズムが崩壊への道を突き進む中で、強く儒教思想に傾倒するようになっていた。
その日タイプライターに向かっていたときに、機関銃を持ったパルチザンがやってきた。愛人のラッジは町へ新聞を買いに行き、妻のドロシーも、ラパロ郊外に住むパウンドの老いた母親を訪ねて不在だった。連行されるとき、彼は『四書』と中国語の辞書をポケットに入れた。
パルチザンはパウンドを近くの町チアヴァリの本部に連行して尋問したが、そのまま釈放した。だが、いつまたパルチザンに捕らえられるかわからず、再び捕らえられた時には処刑される可能性もあると感じた彼は、釈放されたその足ですぐに近くのラヴァニャにあるアメリカ軍の地区本部に出頭した。ジェノアへ連行されて尋問を受け、本国に照会されたのち、五月二四日に彼は逮捕された。その時、彼は五九歳だった。
逮捕された五月二四日、彼はピサ近くにアメリカ軍が建設した檻を並べたような拘置所へ移された。そこに半年ほど拘禁された後、十一月半ばにアメリカのワシントンに移送された。裁判では判決は下されず、裁判に耐えられない精神状態にあるとの理由で、彼は一二月にワシントンにある国立精神病院、セントエリザベス病院に収容された。
彼の援助によって完成した『荒地』で英国詩壇の第一人者になり、一九四七年にはノーベル文学賞を受賞したT・S・エリオット、パリ時代に彼が援助し、やはり一九五四年にノーベル文学賞を受賞したヘミングウエイ、ロンドン時代に彼が発見し、のちには米国の有力な詩人となったロバート・フロスト、パリ時代に彼が指導し、のちに詩人・劇作家となり、第二次大戦中にはルーズベルト政権の文化担当の国務次官補を務めたアーチボルド・マクリーシュ。彼らの働きかけによって米国政府が起訴を取り下げ、パウンドが釈放されたのは一九五八年の五月である。そして、イタリアへ戻った時、彼はすでに七二歳になっていた。それから一四年後、八七歳の誕生日を迎えた二日後の一九七二年十一月一日に、彼はヴェニスで息を引き取った。
3
彼の生涯を見渡すとき、逮捕は彼の人生のクライマックスであったということができるだろう。彼の人生の折り返し点であったということもできる。文学から政治的コミットメントへ。そして、挫折。そのあと、彼は、彼の作品中で最も高く評価されている詩『ピザン・キャントウズ』を書いた。
イギリスの詩人スティーヴン・スペンダーは、「彼の創造的=批評的理論を政治の世界に投射しようと試みた結果は悲劇的であった」(2)と書いている。パウンドが思い描いたユートピアとしてのファシズムと現実の世界との隔たりはあまりにも大きく、それが反逆罪に問われるという悲劇をもたらしたということだろう。
だが、パウンド自身は、『ピザン・キャントウズ』の中で、「なにもせずにいないで なにかをしたこと/それは虚栄ではない」「誤りはすべて なにもしないことにある/ぐらつく自信のなさに」(3)と書いている。彼にとって、政治的コミットメントは、それまでの彼の芸術活動の一つの帰結でもあったのだろう。
彼の生涯だけでなく、彼の生きた時代をも合わせてみるとき、彼の悲劇は時代の悲劇性と表裏をなしていると言うこともできる。彼と同じように一八八〇年代に生まれ、芸術史、思想史の中で主要な位置を与えられている人物には、たとえば次のような人たちがいる。
彼がロンドンで発見し、彼の生涯の友人になったT・S・エリオット、彼の学生時代からの友人であり、アメリカの現代詩人の代表者の一人になったウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、経済に強い関心を持つ中でパウンドが批判するようになった経済学者のジョン・メイナード・ケインズ、非合理主義に傾倒した作家D・H・ローレンス。意識の流れという小説技法を打ち立てて二十世紀文学に新しい時代を切り開いたジェイムズ・ジョイスも一八八〇年代生まれであり、彼はパウンドが長く援助を続けていた作家でもあった。
ドイツ文化圏では、一時ナチズムの賛美者になったと批判されている実存主義哲学者のハイデッガー、唯美主義的な文芸批評を書いたのち、第一次世界大戦を機にマルクス主義者になったルカーチ、近代建築の大きな運動であったバウハウスを主宰したグロピウスらが一八八〇年代に生まれている。
画家ではピカソ、音楽家ではストラビンスキーらが一八八〇年代生まれである。
そして、二〇世紀世界の抗争を導いた政治家、ヒトラーとムッソリーニが生まれたのも一八八〇年代であった。
彼らは、二〇世紀になって世界が迎えざるをえなかった激変、そして現代世界の誕生に強く関与した世代であったということができるだろう。彼らが青年期を迎えた二十世紀初頭、世界は産業革命に続いて近代工業文明が急速な展開期を迎えていた。物質主義、合理主義、自由主義という大きな力が新しい時代を築くと同時に、封建制や宗教によって象徴される古い価値観が徹底的に破壊されていったのが彼らの時代である。鉄道、汽船の発達、自動車の普及による大陸と大洋の狭小化によっても、人々は新しい文化的、政治経済的立場に立つことを求められた。
そうした時代を生きた彼らは、創造の機会に恵まれた世代であったと同時に、国家間、人種間、階級間、イデオロギー間などに生じた激しい対立の中で実存的に生きることを強いられた世代でもあった。
エズラ・パウンドの生涯も、二〇世紀の創造と抗争に強く彩られている。二〇世紀が、クライマックスに達した第二次世界大戦終結時に、彼は二〇世紀の創造者、そして抗争の敗北者として、自らの生涯のクライマックスに立っていたといえるのだろう。
(写真は、Kenner,Hugh : The Pound Era, University of California Press,1971)
引用文献
1) Kenner,Hugh : The Pound Era, University of California Press,1971.,470
2) スペンダー、スティーヴン:エリオット伝(和田旦訳)、みすず書房、1979,
12
3) エズラ・パウンド詩集(新倉俊一訳)、角川書店、一九七六年, 316-7
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2001 Hideo Nogami