手 術 後

トップページへ  工房の屋根裏へ

  父は、直腸の一部、下降結腸の一部、胃の半分を切除し、胆嚢を摘出し、肝動脈カテーテル挿入皮下埋め込み型リサーバー装着の手術を行いました。胃と大腸の目に見えるガンは全て切除したと云うことですが、肝臓のガンは複数あって取りきれないため、定期的に抗ガン剤を注入するためリサーバーを装着したのです。 父は手術後約6週間ガンセンターに入院しその間、痛みやその他の症状に苦しめられはしたものの、薄皮を剥ぐように快復し、平成5年12月11日退院しました。父は5日程、私たちの左近山で養生した後、15日には母と2人で木更津の家へ帰っていきました。後に見たその平成5年12月15日の父の日記には

 

15日 木更津に帰る。

所見 病院により医療の技術格差があり、病気を治す第一の要諦は

医師の選択であることを痛感する。

 

との感想が書き込まれていました。

  この時点で、父は自分のがんがまだ治るがんだと思っていたのです。

手術によって消耗した体力が快復するにしたがって、父は次第に元気になっていく様でした。肝臓にガンが残っているのは確かでしたが、これだけ元気になったのだから、お見舞いに来て下さった方々に快気祝いをお送りし、夫婦旅行でもして欲しいと云うのがわたしの希望でした・・・・・・。もう、治らないのだから・・・・・・、一度は治ったつもりで、生活を楽しんで欲しいと思ったのでした。しかし、父には命の期限を伝えていませんでしたし、本人も治るつもりでいましたから、父は、ガンセンターの医療技術で、肝臓ガンの方もある程度解決が出来るのではないかと思っていたので、結局、快気祝いも、旅行も治ってからのことと、一時は普通の生活が出来るまでに快復したのにもかかわらず、その後、また具合が悪くなるまで、ガンと向き合ったままの生活を送ったのでした。

 

  その後、父は月に1度、抗ガン剤を肝動脈に注入するために、左近山の我が家に、母と1週間滞在するようになりました。初日にがんセンターでほ乳瓶の様な容器に入った抗ガン剤を肝臓のリサーバーに取り付けて貰い、1週間かけて抗ガン剤を肝動脈に注入し、1週間後、またがんセンターで外して貰うのです。

  当時、わたしたち夫婦が住んでいたのは、公団の分譲団地で、わたしは小6の頃から住んでいるところでした。両親が木更津に家を買って移り住んでからは、わたしが引き続き割賦金の支払い、結婚後は、夫が左近山に越してきました。間取りは3DKで団地サイズの四畳半が二間、六畳一間にダイニングキッチンでしたが、わたしが一人暮らしを始めてからは、ダイニングキッチンと六畳間を一部屋のリビングとし、夫が越してきてからは、玄関脇の一間は夫の荷物を入れた納戸の様になっていましたので、両親が滞在するようになったこの頃は、リビングと四畳半の二間しかありませんでした。そこで、わたしたちは四畳半を寝室に、両親が来た時はリビングに寝て貰らっていました。襖一枚で仕切られた大人二所帯の生活。台所はリビングにありますので、朝食は寝ている父を横目に済まさなければなりません。お風呂に入るのも、TVの音にも気は使いました。父は抗ガン剤の副作用が出て、体調が悪い分、不機嫌で、家族それぞれが、気を使いながら暮らしていました。

 

  今後、病状が進んだ時、どうやって通院治療するかを考えると、父の治療はガンセンターで続ける必要がありましたし、経済的に私も勤めを辞めるわけにはいきません。そこで、横浜で同居出来る家探しが始まりました。父が病気になるまでは、夫の母が一人暮らしなので、いつかは夫の母と同居出来る家をと、考えていましたが、父のがんが判ってからは、父ががんセンターに通院するための部屋(その部屋は父にもしもの時は母が暮らす部屋でもあります)と夫の母の部屋が確保できる家を探さなければなりませんでした。また同居するに当たっては、狭くてもそれぞれが気がねなく居られる部屋があることが重要なポイントになりました。しかし、そんな都合のいい間取りの家はそうそうありませんでした。そこで、わたしたちはわたしたちの要望にかなった間取りの家を建てることを考え、夫の会社の不動産の斡旋をしている関連会社に相談して土地探しを始めました。大きな問題の一つは資金でした。左近山の支払いは終わっていましたので、基本的には左近山を売った代金を頭金にローンを組むことになり、足りない分は親や親戚から借りることになりました。

トップページへ  工房の屋根裏へ

e-mail : mixseeds@seaple.icc.ne.jp         

平成10年10月4日  ペ−ジ制作:たぬ