手 術
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衝撃の告知ではあったものの、当時の父は今思えばまだまだ、元気な状態にありました。土日にわたしたちのところへ外泊もすれば、見舞いにきた親戚の者と二俣川駅前の西友でお弁当を買い、近くの大池公園まで行って食べたり、ほぼ普通に近い生活を送っていたのです。結局、同室の同じ運命の患者さんが皆、手術をして一時ではあっても元気になって退院していく様子みて、自分がガンに罹ったことを受け入れ、手術の日を待っていたのです。しかし一見、ガンを受け入れた様に見えても、忍び寄る死の恐怖はいかばかりだったのでしょう。
こんなことがありました。外泊の日、父が西友で衣料品を買ったところ、おつりが偶然4、444円だったと云うのです。「四は死に通ずる」と云って忌み嫌う向きもありますが、昔だったら一笑に伏す父が、その日は、ヤケに気にするのです。そんなに気になるなら、「返品してしまえば良いのに」とわたしなら思うのですが、父にとってはやるせない思いだったのでしょう。返品までする気はないけれど、気になって気になって仕方がないと言うわけです。うどん粉を飲ませても、効果のある薬だと云って飲ませれば、効果が表れるという「プラシーボ効果」が最近、流行っていますが、父の場合はまさにこの逆。迷信だと分かっていても具合が悪くなってしまう「逆プラシーボ効果」が働いてしまった様に思います。
10/27 父はS先生より手術の説明を受けました。それによると、直腸の進行ガンの切除2時間、下行結腸の早期ガンの切除30分、胃の早期ガンの切除1時間、胆嚢切除と肝動脈のカテーテル挿入リサーバー装着1時間半、計5時間の大手術になるとのことでした。手術は11/1に行われることになりました。
10/29 わたしたち家族(母とわたしと夫)がその説明を受けました。わたしたちにとって、「助かるためには手術ありき」でしたから、手術そのものの危険性よりも、その後の生活が何処まで回復するかが大きな関心で、月一度のカテーテルから肝臓への抗ガン剤投与がどのくらい続くのかとか(もちろん、積極的治療を諦めるのでなければ死ぬまで続くわけですが)まるでいつになったら抗ガン剤を投与しないでも良いところまで治るんだと云った感じでS先生に質問していたような気がします。それに対して、S先生は「後、何ヶ月の命だから」とは答えず、「ずーっとです」と云った言葉に、思わず抗ガン剤さえ続ければ、ずーっと生き続けられる様な錯覚に陥ったわたしでした。
11/1 手術の当日、午前8:30頃、母と夫と病院に入りました。先週、先々週に手術が終わり回復期に入った同室の患者さんたちの笑顔に力づけられながら父とわたしたちは病室を後にしました。手術室の前には、父の他に2人の患者さんが中に入る順番を待っていました。父を運ぶ看護婦さんも、手術をする外科のS先生にとっても、いつもの光景なのでしょう。ただ、これから大手術を受ける患者と家族には初めての経験で、不安を何処にぶつければ良いのか、その落ち着かぬ様子は檻の中の熊と言ったところでした。9:00に父は手術室に入りました。
「2時に戻る」夫が仕事の都合で、会社に戻りました。母とわたしは、他の2家族と手術室の前で父を見送りました。そして、手術の間中、母とわたしは、手術室前のソファーで時計の針が進むのをひたすら待ちました。2時少し前に夫が戻ってきても、父の手術は終わっていませんでした。5時間の予定を大幅に過ぎ、午後3:15に手術は終わりました。S先生の話では、大腸と胃のガンは全て切除できたとのことでした。取りあえず手術は成功したのです。ただ肝臓のガンは複数あるので、切除せず、今後の抗ガン剤の投与のためにリサーバーを装着したとのことでした。S先生は切除した大腸2カ所と胃1カ所を見せてくれました。理科室で見た解剖皿に虫ピンで止められた患部は、一目で異質な物と分かりましたが、これが父を苦しめるガンなのかと思うほど、小さい病片でした。
その後、回復室の父に会えると云うことで、わたしたち3人は紙製の白衣を着、帽子を被って、回復室へ入りました。
「お父さん!お父さん」声をかけるわたしたちが分かったのか、分からないのか、父は
「イタイ!イタイ!」と云っていました。
この手術で「治ってくれれば!」と云う思いと「絶対治らないけれど、最良の治療を受けているのだから」と云う思いが交錯しました。
「痛止めをあげますから、大丈夫ですよ」
という看護婦さんの声を背に、わたしたちは回復室を後にしました。取りあえず父のガンを知ってからの最初の目標「手術」が終わりました。父にとって、ガンの告知は辛かったでしょう。手術は痛かったでしょう。しかし、一歩は踏み出されたのでした。その一歩は、最期の時へ近づく、最初の一歩でもありました。一方、最善の一歩を踏み出したのだと云う思いもありました。S先生も敢えて、期限は話されませんでしたから、これから父がどれぐらい生きられるのかは、分かりませんでした。9月半ばからの1ヶ月半の緊張がほんの少し弛んだ様でした。
手術の成功に安堵しながら、わたしたちは病院を出ました。自動車試験場の横を通り帰りの途に付きました。道すがら、わたしは6時間もの手術をやり遂げた、外科のS先生が本当に優秀な外科医であるのだなぁと思いました。前の病院では不可能だと云われた手術したS先生に感謝しました。そして、患者への感情移入をしていたら、人の生死に係わり、これだけのエネルギーを使っての大手術など出来ない様な気もしました。
二俣川駅までの道すがら、わたしの目を引いたのは不動産屋の看板でした。次なるわたしたちの課題は家探しでした。団地では、わたしたち夫婦とわたしの両親が襖一枚で隣り合わせの生活をしていました。わたし自身は良いのです。一緒にいるのは夫であり両親なのですから。ただ、夫にしても両親にしてもお互い何かと気を使って暮らしていました。わたしたちが次に考えなければならなかったのは、父がこれから治療を続けるため部屋がある家、父に万一の時、残った母も一緒に暮らせる家。そして、当時一人暮らしの夫の母との同居をするための家のことでした。
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平成10年6月28日 ペ−ジ制作:たぬ