お呼び出し

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 1993年の秋、わたしたちは結婚2年目、それぞれの親とは別に住み、2人だけの生活を楽しんでいた。結婚2周年の記念に金沢と奥能登への旅行の計画も進み、旅行クーポンが出来るのを楽しみに待っている9月の第2日曜日のことだった、離れて暮らしているので、毎週日曜日の夜には、夫の母とわたしの両親に電話をすることが習慣になっていた。夫の母への電話が終わり、次にわたしの実家へ電話をすると、いつもになく、沈んだ声で、母は父が具合が悪く前の金曜日にK病院に検査に行ったことを話した。来週の金曜日に検査結果が分かるという。

「お父さん、今日はもう部屋で寝ているの、何か重い病気だったらどうしよう」

と母が云うので、

「毎年、健康診断しているのだから大丈夫でしょ」

と励まして、電話を切った。臨床検査技師をしている友人に電話をし聞いてみた。

「父が具合が悪いだけれど、例えばガンだったら、病院では検査結果は直接本人に云うの?」と聞くと

「日本はまだまだ、本人には云わないで、たいてい家族に連絡するわね。病院からお呼び出しの電話がないなら大丈夫よ」と云われた。

「そうかお呼び出しかぁ、病院から電話がないなら大丈夫かぁ」と少し、ほっとして、それをまた母に電話で連絡した。

 それまで、全く曇りのない楽しい新婚生活を送っていたわたしたちだったが、その電話受けた時からわたしたちの周囲に雲がかかり始め、それは次第に暗雲になり、やがて,わたしたちは、先の見えない長い暗闇のトンネルに突入して行ったのだった。

 翌週、わたしは、父の検査の結果が気になりながらも、病院からの連絡がないことでかなり安心していた。体調が悪いと云うことで、父は取りあえず、入院したが、結果が分かることになっていた17日にも特に連絡がないので、夏の疲れで食欲が落ちたぐらいのことだったのだろうと思うようになっていた。ところが、翌々週の月曜日、私が勤めに出ていると昼頃、母から電話がかかってきた。母は声をひそめて「お呼び出しがあったの」と云った。わたしは、一端電話を切り、会社の外の公衆電話から実家に電話かけ直した。主治医の若い女医さんから、今、電話があって「お話したいことがありますので、病院まできていただけませんか」と云われたという。母は「ちょっとお伺いしたいのですが、ガンなんでしょうか」と尋ねてみると、その女の先生が「そ〜なんですよ」と答えたというのだ。これから病院に行ってくるから、また後で電話するとのことだった。その時点では、ガンが重いのか軽いのかも分からなかった。職場に戻って、仕事をしながら、母からの電話を待った。そして、午後3時頃だったか、再度母から電話があった。病院へ行って来たという。また、電話を切って、外の薬局の公衆電話から、実家にかけ直した。(昼間の連絡はみなテレカを使ったので、この後、両親との同居が始まるまでに使った105度のテレカの数は30枚を越えた)

 「大腸のポリープの写真を見せられてね、ガンだって・・・。肝臓にも転移していて、500円玉位のガンが1つと、小さいガンがいくつかあるので、後半年から1年くらいだって・・・」衝撃的な話ではあったが、母は意外に落ち着いた声で話していた。わたしも、受話器の向こう側の世界の話のようで、実感が湧いてこなかった。

「先生が、(本人にガンであることを話すかどうかを)どうしましょうかと云ったので、本人はガンではないかとひどく落ち込んでいるので、絶対に云わないで下さいと頼んだら、先生が、では、わたしから話した方がいいですねって、本人を連れてきて下さいと云われ、病室にお父さんを呼びに行ったの」

先生が「幸い、良性の腫瘍でしたが、大きいポリープが6カ所有り、前ガン状態なので手術をしなければなりません」と父に告げ、父はそれを聞いて喜んでいたということだった。

 父はガンだったのだ。しかし、離れて暮らしていて、それまでの体調の不調を見ていないわたしにはまるで、実感のないことだった。毎年健康診断をしていて、何で、急に後半年と宣告されなければならないのだろうか!?そう言えば、数年前から潜血反応はプラスだったと云う。何で、その時に精密検査を受けていなかったのだろう!主治医は若い先生だし、もしかしたら、誤診かも知れない。手術をするなら、ガンセンターが良いのではないか?実感はないが、いろいろな思いが駆け抜けた。わたしは夫に電話をし経緯を話した。詳しいことは、帰ってからということで電話を切ったが、その後、夫はわたしの母のところにも電話をかけ、励ましてくれた。後に、母はこの時の夫の電話を「ひとりぼっちじゃないんだ、みんながついていてくれるんだなぁ」と感じて、心強かったと云っている。

 会社の帰りわたしは旅行代理店で、旅行のキャンセルをした。その夜、夫と今後のことを話し合った。今、入院している病院が信頼が置けないと云うのではない。が、しかし、あまりに若い主治医、散らかった診察室、風邪くらいなら良いけれど、病気が病気なだけに、少しでも医療技術が高い、設備の良い病院へ入れたかった。

「とにかく、信頼できる病院に移した方が良い」

 病院をいろいろ検討した。夫の会社関係、親戚関係の病院の名前が出たが、結局、横浜の自宅近くのガンセンターが良いのではないかと云うことになった。ガンセンターは、以前成人病センターと呼ばれていて、以前、父も1度入院したことがあり、結構気に入っていた病院だった。母に電話し、手術するなら、ガンセンターが良いのではないか、翌日ガンセンターに話を聞きに行ってくると伝えた。

 翌日、わたしと夫は休暇を取り、ガンセンターに説明を聞きに云った。現在の病院から紹介状と検査の資料(レントゲン等)を貰って、入院の申し込みをしておけば、ベッドが空き次第、連絡を貰えるということだった。翌日は勤めに出、横浜には帰らず、実家へ向かった。木更津の実家に着いたのは夜9:00頃で、父のいない居間は、灯りまで、薄暗く感じられた。母が夕食を待っていてくれ、2人でひっそりと食事をした。

 次の日は秋分の日でお休みだった。雨の中、お昼頃、K病院に父を見舞った。わたしと母の陰鬱な気分に較べ、父は、良性の腫瘍ということで、機嫌は悪くはなかった。折しもタレントの逸見さんがガンの宣告をマスコミが盛んにかき立てている頃だった。ガンかも知れないと思っていた時は、「有名人は良い医者にかかれるからいいなぁ」悲壮感たっぷりに、云っていた父だが、自分がガンではないと告げられてからは、逸見さんのニュースに触れる度に、切実に助かったと思っているようだった。雨の日の暗い病院。ただ、何も知らない父の明るさが救いだった。父と話している時は、お芝居しているというより、わたし自身も良性の腫瘍と云うウソを信じたいと云う気持ちだった。

 それまで、実感が湧かなかったわたしだったが、父にガンではないとウソをつくようになってから、わたしの中で、父のガンがリアルな問題となってきた。本屋のガンのコーナーで長い間、本を探したり、お風呂の中で涙をこぼしたり、(お風呂の中なら一人きりだし、涙がこぼれても汚れないし、隠れて泣くのに最適な場所だと思ったものだ。ただ、泣いた後の顔はばれてしまうけれど・・・)それまでの結婚生活が仕合わせだっただけに、人生の縄の裏表に打ちのめされる様だった。何か行動することが、その辛さを逃れる、唯一の方法だった。

 転院すれば、何か希望が持てるのではないかと云うことで、手術するなら、横浜のガンセンターでした方が良いと、父を説得した。翌日、実家から会社へ直行し、わたしたち夫婦でガンセンターの予約をし、父は、K病院に、横浜の娘夫婦のところに行きたいので、紹介状を書いて欲しいと依頼した。次の週末は夫と二人で実家に帰った。K病院を訪れ、父を見舞った後、K病院で手術を受ける場合の説明を、外科の医師の話を聞いた。内科の先生より更に若い、まだ学生言葉の抜けない先生だった。手術しても、大腸のガンは取り切れないので、便の流れをよくするバイパスを付けるだけと云うことだった。しかも、人工肛門になるかもしれないという。その時には、家族の意志は“ガンセンターでの手術”に決まっていたので、内科の主治医に相談した。結局、K病院で手術をしないなら、もう退院して良いということになった。もし、ガンセンターの入院待ち長引くようであれば、また、来て下さいということで、11月2日、父はK病院を退院した。

 

 今年(平成9年)7月、父の3回忌を済ませ、11月にわたしたち夫婦は、父のガン宣告で中止になっていた金沢・能登の旅を実現することが出来ました。父の生と死を見つめてきて、思ったことは、これから先、夫婦の間に何が起こるかも知れないと云うことでした。今は、夫婦でいろいろな共通の体験を、たくさんしておく時だと思う旅でした。

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平成9年11月30日  ペ−ジ制作:たぬ