坂  道

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  仕事帰り遅くなり、横浜で食事を済ませて、最寄りの駅に着いたのは

午後10時半を回っていた。私は、防犯灯の少ない夜の坂道を歩くのが嫌で、

駅前のロータリーに並んで、タクシーに乗った。静かな古い町の通りは、

商店こそ締まっているが、コンビニの明かりや居酒屋の赤提灯にほっと心が

和むような気がした。

タクシーが街の小さな本屋の角を右折すると、冬は凍結注意の看板が立て

られている急な坂に差しかかり、私の体は、グゥ−とシートに沈んだ。

 

「あああ、あああ…。」

そしてまた、私はあの日の父の笑った声が聞こえた様な気がするのだった。

 

「お試し入院だから…」

と言って、まだまだ生きることに執着のある父を、その痛みに呻く姿を見かね、

せめて苦痛だけでも取り去って自宅に戻って貰いたいと、

ホスピスに入院させたのは、昨年の6月も末の頃だった。

入院当初は、

「一ヶ月単位で考えてください」

と言う先生の言葉が入院して一週間経たぬうちに

「週単位で…」

になり、入院して二週間後の土曜日、

私が泊まりの付き添いに行くと、月曜日の予定だった外泊が、

「月曜日では間に合わないかもしれないので、明日の外泊にしてください」

と言う言葉に変わっていた。

 

  ホスピスに入院し、痛みのコントロールはできるようになったものの、

反面、肝臓の機能の低下から父は意識が混濁し始めていた。

外泊前夜の父はまるで、子どもの様だった。

「小原さんよかったね。明日、お家へ帰れるね」

夜勤の看護婦さんに声をかけられ、嬉しそうに笑いながら、

父は、WWFのパンダバッジの付いた帽子をかぶり、ベッドの片側に腰をかけ、

いっこうに横になろうとしないのだ。まるで、遠足の前の晩、子どもが興奮し

眠れない様に、父は、9時になっても10時になっても、キョトンとした目で

宙を見やり、ふっと思い立った様に

「くうま、まあこないの?」(車まだ来ないの?)

と私の顔を見るのだった。

「今夜一晩、寝たらね。

明日、タクシーで釜利谷のお家へ帰ろうね」

ちっとも、眠ろうとしない父に、困り果てて、ナースステーションへ相談に

行くと、ちょうど夜勤だった、ホスピス病棟の婦長の青木さんが様子を見に

来てくださった。

婦長さんと、一緒に病室まで戻ると、父はパンダ帽子の上にご丁寧にも

母の作ったドーナツ座布団までのせて、帰る準備万端といった様子だった。

「そう、小原さん、お家へ帰るのがそんなにうれしいの?」

と青木さんは父に声をかけ、私に、

「車椅子で、1階までちょっと散歩してきたら、

小原さん、帰るのが嬉しくて眠れないのね。

ちょっと、動くと気が納まるかもしれないから…。

それでも、眠れなかったら、睡眠薬を出しましょう」

 

  父の体を青木さんに手伝って貰い、車椅子に移すと、私はゆっくりと父の

乗った車椅子を押した。ゆっくり、ゆっくりと、

「明日、お家へ帰ろうね、お母さんやアキちゃんや、中野島のお母さんも

みんな待ってるからね」

そう言いながら、私は5階のホスピス病棟にエレベータが来るのを待ち、

エレベーターに乗った。エレベーターの中でもゆっくりゆっくりした時間が

流れていた。1階に着いてエレベータを降りると、ゆっくりゆっくり、

ゆっくりゆっくり長い廊下の端にある病院の正面玄関まで車椅子を押していった。夜はその前を通ってもドアの開かない、自動ドアの前を通り父と私は、

人気のない非常灯だけが光る暗い待合室を車椅子で一周した。

病院には付き物の花が飾ってあって、(何の花だったかは、今は思い出せない)

「○○○○がきれいね」

と父に話しかけた。

ゆっくりゆっくりと時間が過ぎた。でも、ギリッギリッと機械仕掛けで命の

時間が、1秒、1秒、遅くもなく、速くもなく確実に過ぎていく様でもあった。

 

  人生に付いて語り合ったわけでもないが、その時ほど、父と娘の心が近い距離

にあったことはこれまでになかったかもしれない。

1階のエレベータ横の、自動販売機の前に車椅子を止め、

「お父さん、ジュース買おうか?

何がいい?」

と私が提案したのは、ボーッとした父に何か少しでもいいから判断して欲し

かったからだ。

「ミルクとりんごジュースとオレンジジュースとコーヒー牛乳。

何がいい?

オレンジジュース?

りんごジュース?」

「ああ・・・」

「りんごジュースね」

「ああ…」

「あと、オレンジジュースも買っておこうか?」

「ああ…」

虚ろだが、父の目が、自動販売機のジュースのパックを見上げ、

どれにしようかと見定めている様子が、私はとても嬉しかった。

硬貨を入れゴトンゴトン、ゴトンゴトンと落ちてきた2コのパックを

取り出し父の膝に乗せると、私は何か仕事をし終えた様な気がして、

ようやく5階のホスピス病棟にある父の病室に戻った。

結局、それでも、父は眠れず、看護婦さんに睡眠薬を飲ませて貰って、

夜中の12時近くにようやく横になったのだ。

 

  翌朝も、5時頃から、パンダ帽子を被り釜利谷へ帰ると父は、起き出した。

朝食はほとんど食べなかった。朝食のお盆の上の牛乳は私が飲んで、父は、

昨日のりんごジュースをを少し飲んだ。

2日の外泊に備えて、点滴を2本して貰う。

父にはどんなに長い点滴だったろう。

青木さんが事情を説明して、頼み込んだ、相鉄のタクシーが10時に来た。

事情とは、途中で何が起こるかもしれないが、異変が起きたら、

そのまま病院に引き返してくれということだった。心強かったのは、

夜勤明けの青木さんが、一緒に家まで同行してくれるということだった。

昨夜一周した病院の正面玄関まで、車椅子で行き、その黒いタクシーに

青木さんと運転手さんと私とで、父を車に乗せ、折り畳んだ車椅子を、

トランクに積み込んで、出発した。

気持ちのいい7月9日の朝だった。

 

 青木さんと私は嬉しそうだがボッ−としている父に言葉をかけながら

タクシーの窓から不案内な道の行く手を見つめていた。

「小原さんよかってね、お家に帰れるね。」

青木さんが助手席から振り返りながら父に声をかけた。

「ああ!」

父は嬉しそうにパンダ帽子を被りなおした。

「小原さん、いい帽子かぶってるね」

と言われ、上機嫌の父は、帽子をとると青木さんの頭へ被せた

「帽子貸してくれるの?」

「よかったぁ、どうぞ」

父の水先案内人の帽子は今度は青木さんの頭に乗って私たちを先導している

様だった。相鉄線の横を走り、かつて住んでいた二俣川の横を通った。

その後は、入院したとき通った道を家に、向かっているのだろうが、

どの辺りを走っているのか私には皆目見当が付かなかった。

父はと言えば、声をかければ返事はするが、やはり、ボッーとしているの

だった。2週間前この道を通って入院する時は、運転手さんに、

具合が悪いから速くやってくれと、盛んに話しかけていた父のことを考えると

信じられないくらい昔のことのように思えるのだった。

 

 横浜の中心部を抜け、次第に緑も多くなって、金沢自然公園の近くまで来ると、

さすがに方向音痴の私にも、家が近くなってなってきた気がして、

運転手さんと道順の確認をした。

笹毛釜利谷通りを左折し、駅からとは逆方向にバス通りに入る。

クリニックビルを通り過ぎ、本屋の看板が見えてきた。

「そこの本屋さんのところで左折してください。

お父さん、もうすぐ、お家だからね。もうすぐ家の前の坂道だからね」

そして、車は本屋の手前を左折した。

車体が急なカーブに差し掛かり、私と父の体が後部座席に埋まった。

「お父さん!分かる?

坂道だよ!

釜利谷の坂道!

お家に帰って来たんだよ!」

 

「あああ、あああ…」

そして、その時、私は不明瞭ではあるけれど、父が大きな声を上げて笑うのを

聞いたのだった。

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平成9年5月吉日  ペ−ジ制作:たぬ