−歴史・伝説・民話を歩く−

楠山 永雄 著
2003年2月28日入力
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    NO.59 いれずみ大臣

◇ 宝樹院の阿弥陀さま
宝樹院本堂と阿弥陀堂(左奥)
 金沢八景駅から、鎌倉・大船行のバスに乗って「大道」で下車、数分歩いた小高い丘の上に宝樹院がある。古くは、六浦三艘の谷戸にあった寺院だが、350年ほど前に火災にあい現在地に移されたという。
 境内の阿弥陀堂に、中尊の阿弥陀如来坐像(像高83,7p)、その両脇に観音菩薩・勢至菩薩が立つ阿弥陀三尊像が祀られ
阿弥陀三尊像
(宝樹院の阿弥陀堂に安置)
ている。近年、この三尊像が、にわかに脚光を浴びることになった。
 それまでは、行基作という伝承だけで詳細不明の仏像であったが、平成3年に修理した際、像内から由緒を物語る多種多様の納入品が発見されたのだ。三尊像が旧大道山常福寺の本尊だったことや、称名寺の初代住職・審海が像の修理を発願したことなど、多くの新事実が判明した。更に常福寺の創建や三尊像の製作年代が、平安末期の久安3年(1147)まで遡ることも注目を集めた。古代後期の歴史や文化を知る史料が、東国で発見されたのは極めて貴重とのことである。平成4年度に県重要文化財に指定された。
 金沢・六浦地方には、こんな遠い昔から極楽浄土を願う信仰や文化が育まれていたのである。









◇ 常福寺の門前に関所
旧大道山常福寺の墓地(旧寺域内)
 今は廃寺となったが、かつて宝樹院の南側崖下には、大道山常福寺という大きな寺院があった。文永8年(1271)に称名寺の末寺となったが、鎌倉幕府の滅亡で称名寺は
小泉又次郎の肖像
(宝樹院蔵)
後援者を失い七堂伽藍は荒廃するばかりだった。鎌倉公方の足利持氏は、これを惜しみ称名寺を特別に厚遇していたといわれる。
 金沢文庫文書の中に、称名寺の修理費に充てるため常福寺の門前に関所を設け、通行料を徴収したという幾つかの記録がある。それには、永享4年(1432)に足利持氏から称名寺宛てに、六浦大道の関料を3年間寄付することを伝えたものや、通行料は人が2文、荷駄は3文というものもある。
 この関所は、江戸時代に「入り鉄砲と出女」を取締まった監視目的の関所とは違い、荒廃した称名寺の修理費をかせぐのが目的であった。








◇ 金沢が生んだ政治家・小泉又次郎
「小泉又次郎誕生地」の石碑
(大道2丁目)
 「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎は、慶応元年にトビ職の次男として大道に生れた。又次郎が小学校に入学するころ、小泉家は文明開化の流れに乗り急速に発展する横須賀に移住し、まもなく港湾一の請負業・小泉組になった。
 又次郎少年は、時たま父に連れられて横須賀造船所に行き、りりしい海軍士官の姿にあこがれていた。成長した或る年のこと、家に無断で海軍士官学校の予備校に入学するが、兄が病死したため、家業の小泉組を継ぐ立場となり家に連れ戻される。だが、又次郎は再び上京し今度は陸軍士官学校の予備校に入学。またも父に見つかり「何としても家業を継げ!」と厳命された。
 ところで、又次郎が全身に「昇り龍のいれずみ」を彫っていた話は有名だが、それは軍人への夢を諦め、トビの道に生きることを父に示した行為といわれる。
 当時は、薩長が実権を握っていた「藩閥政治」の時代。これに対し民主的立憲国家を目指す自由民権運動が全国的に盛り上がりを見せていた。ある時、民権派の旗手・板垣退助の演説を聞いて、又次郎の血は熱く燃えあがった。やがて政治家を志し、新聞記者や神奈川県議を経て、明
小泉又次郎の書
(逓信大臣当時/久保木実氏蔵)
治41年に代議士に初当選。のち衆議院議員12回連続当選、勤続年数は38年にも及んだ。
 この間、憲政会幹事長や衆議院議員副議長、浜口・若槻内閣の逓信大臣等を歴任し、昭和9年には横須賀市長に就任した。昭和26年9月24日逝去、享年87歳であった。
 小泉又次郎は、「民政党殿任誉普徳大居士」の法名で、養嗣・小泉純也(元国務大臣)と共に宝樹院に葬られている。孫の小泉純一郎は、現職の内閣総理大臣。あの迫力ある気概は、トビ職の血を引いていると見る人が少なくない。












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