−歴史・伝説・民話を歩く−

楠山 永雄 著
2003年1月31日入力
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    NO.58 泥亀新田と泥亀の牡丹

◇ 名物・金沢のハス
泥亀公園
(泥亀町2丁目)
 金沢区「泥亀町」。ちょっと読み方に戸惑う町名だが、ここは総合庁舎、警察署、郵便局、公会堂、銀行、ショッピングセンター等が集中する金沢区の心臓部をなしている街である。
 正しくは「でいき町」と読むが、初めて金沢にきた人が「どろがめ町」と呼んだという話をよく聞く。この地域がまだ入江だった江戸時代に、"泥亀さん"という人が新田を開発したことに因んで名付けられた。
 泥亀新田は完成したものの、低湿地に加え塩分を多く含んでいたため、稲作には余り適していなかった。試行錯誤のすえ、町屋の柴田虎吉が浜名湖から蓮根の苗を持ち帰り栽培を始めたのが明治32年頃と
泥亀新田の蓮田
(昭和31年7月)
いう。蓮田は泥亀新田を中心に、谷津から釜利谷一帯に広がり、戦時中もほとんど埋立てられることはなかった。戦後は「名物・金沢のハス」として黄金時代もあったらしいが、潮風にゆらぐ蓮田の風景を懐かしむ人も多い。
 現在のように開発されたのは、昭和35年に横浜市が都市計画事業として蓮田22ha余の埋立てから始めた。ところが、翌年6月に東日本を襲った集中豪雨で一面海のような状態となったため、工事を中断し治水対策が検討された。工事期間は3年間延長して41年3月に竣工、7月には泥亀バイパスが開通した。









◇ 永島家、200年の苦闘
旧永島邸
(絵葉書/大正初年)
 江戸・湯島聖堂の儒官であった永島祐伯(号を泥亀といった)は、晩年を金沢の野島に移り住んだ。やがて新田開発に乗り出し、寛文8年(1668)には走川と平潟の二ヶ所を埋め立て、2町6反余を拓いたのが泥亀新田の始まりである。のち、永島家は代々段右衛門を襲名し、明治に至るまで、実に9代・200年にわたり干拓事業に取り組んだのである。
 その間、元禄16年(1703)の南関東大地震や、天明6年(1785)の関東大洪水など数度にわたり災害を被った。寛政元年(1789)の洪水では元の入江に戻ってしまい、新田内を舟が往来し漁が行われるという有様だった。しかし、永島家の復旧への苦闘は屈することなく続いた。
 干拓事業が軌道に乗ったのは、嘉永2年
亀巣翁功徳の碑
(旧永島邸内)
(1849)、9代目忠篤(号・亀巣)の時である。遂に新田67町余、平潟に塩田2町余が完成した。永島家は製塩の成功で近郷に並ぶもののない大富豪となったのである。
 だが、明治43年、明治政府が製塩地整理法を施行したとき、鎌倉時代から700年も続いた金沢の製塩は廃止の対象となって幕を閉じた。これにより永島家の経営は決定的な打撃を受け、大正5年には泥亀新田を博文館社主・大橋新太郎に売却という結末を迎える。
 旧永島邸内に建つ巨大な根府川石の「亀巣翁功徳の碑」に、その歴史が刻まれ栄華の時代を偲ばせている。永島一族の墓所は洲崎の龍華寺にある。












◇ 泥亀の牡丹
旧永島邸牡丹園
手彩色古写真
(明治20年代)
 金沢の牡丹として有名な「泥亀の牡丹」は、花見の時になると屋敷内の牡丹園は一般に公開され、近郷近在からの見物客で賑った。著名人の来訪も多く、逗子に住んでいた徳富蘆花も牡丹見にきたことが著書「自然と人生」に出てくる。
 泥亀新田が大橋新太郎に譲渡された後、泥亀新田は大橋新田と呼ばれ、牡丹も「大橋の牡丹」として引き継がれた。金沢町の大橋別邸にあった牡丹園も有名で、花の盛りにはボンボリが灯され大勢の客が訪れたという。
 「金沢区の花」が牡丹であるのは、永島・大橋の牡丹園に由来し、区制45周年記念に一般公募して選定された。
大橋別荘の牡丹園
(絵葉書/昭和10年代)

 大橋新太郎は金沢文庫の再興に貢献し、八景園や養鶏場などを経営したが、終戦後の農地改革によって広大な土地を失い金沢を去った。栄枯盛衰、永島家も大橋家も金沢の地に大きな足跡を残したことを忘れることはできない。

















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