−歴史・伝説・民話を歩く−![]() 楠山 永雄 著 2003年1月31日入力 |
| NO.58 | 泥亀新田と泥亀の牡丹 |
| ◇ 永島家、200年の苦闘 | ||||
その間、元禄16年(1703)の南関東大地震や、天明6年(1785)の関東大洪水など数度にわたり災害を被った。寛政元年(1789)の洪水では元の入江に戻ってしまい、新田内を舟が往来し漁が行われるという有様だった。しかし、永島家の復旧への苦闘は屈することなく続いた。 干拓事業が軌道に乗ったのは、嘉永2年
だが、明治43年、明治政府が製塩地整理法を施行したとき、鎌倉時代から700年も続いた金沢の製塩は廃止の対象となって幕を閉じた。これにより永島家の経営は決定的な打撃を受け、大正5年には泥亀新田を博文館社主・大橋新太郎に売却という結末を迎える。 旧永島邸内に建つ巨大な根府川石の「亀巣翁功徳の碑」に、その歴史が刻まれ栄華の時代を偲ばせている。永島一族の墓所は洲崎の龍華寺にある。 |
| ◇ 泥亀の牡丹 | ||||
泥亀新田が大橋新太郎に譲渡された後、泥亀新田は大橋新田と呼ばれ、牡丹も「大橋の牡丹」として引き継がれた。金沢町の大橋別邸にあった牡丹園も有名で、花の盛りにはボンボリが灯され大勢の客が訪れたという。 「金沢区の花」が牡丹であるのは、永島・大橋の牡丹園に由来し、区制45周年記念に一般公募して選定された。
大橋新太郎は金沢文庫の再興に貢献し、八景園や養鶏場などを経営したが、終戦後の農地改革によって広大な土地を失い金沢を去った。栄枯盛衰、永島家も大橋家も金沢の地に大きな足跡を残したことを忘れることはできない。 |