−歴史・伝説・民話を歩く−![]() 楠山 永雄 著 2002年11月30日入力 |
| NO.56 | 「あら痛や!」と文殊さま |
| ◇ 禅林寺の創建は鎌倉公方さま | ||||
のち、宝徳元年(1449)には、持氏の遺児・成氏も鎌倉公方に就いたが、またも将軍家や管領上杉憲忠らと対立。長い戦乱(亨徳の乱)の末に下総の古河に退いて勢力を張り、古河公方と呼ばれていた。 遠く離れていても、先祖を敬慕する成氏は、下総・東昌寺の能山聚芸禅師に父持氏の供養を依頼した。かくして明応2年(1493)、 能山禅師は持氏ゆかりの禅林寺に開山として迎えられたのである。
その後、釜利谷の領主となった後北条氏の家臣・伊丹三河守永親が、荒廃していた禅林寺を再建し中興開基となった。境内墓地には伊丹三河守永親の墓が建つ。 伊丹家の子孫で、浅草寺知楽院忠尊僧正は、江戸城内の紅葉山東照宮別当を兼ねていた縁で、坂本村200石が東照宮神領となった。 このため、釜利谷郷は赤井・坂本・宿3村のうち、坂本村だけが特別な待遇を受け、東照宮に奉仕することと、江戸城中へ正月の門松を献上する他は、すべての村役等が免除されていた。 |
| ◇ 家康公の肖像画 | ||||
更に、村の名主と組頭宛にも同日付で通達書が出ている。「坂本村の年貢米のうち1石5升を祭祀料として禅林寺に納めること。その日、領民は農作業を休み参拝すること。神領地内は殺生禁断とすること。」など、きついお達しであった。 徳川幕府の崩壊と共に、このお達しが無効になったことは言うまでもないが、禅林寺では毎年4月17日を家康忌とし、主要な年中行事として現在も守り続けている。 |