−歴史・伝説・民話を歩く−

楠山 永雄 著
2002年11月30日入力
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    NO.56 「あら痛や!」と文殊さま

◇ 荒痛文殊<あらいたもんじゅ>
禅林寺山門(平成14年)
 昔、釜利谷・坂本村の山中に文殊菩薩を祀るお堂があった。ある年、大雨で山が崩壊し、文殊堂は無残にも前の文殊沢に埋没してしまう。村人たちは、鍬や鋤で土砂を掘り、石を動かし懸命に尊像を探した。また一振り、鍬を打ち込んだ。と、その時、土中から何か聞こえる。「あら痛や!」「あら痛や!」と呼ぶ声だ。
 驚いた村人たちが、恐る恐る土砂を取り除いて見ると、声の主はなんと文殊さま。村人たちは、ご安泰の尊像を拝み感激の涙にむせぶ。すぐさま尊像を担いで禅林寺へ運び、住職に一部始終を話した。やがて、境内の竹岩山に一堂を建て祀ったという。
浅草寺観世音
(絵葉書/大正後期)

 それ以来、「あら痛や!」の声から、「荒痛<あらいた>文殊」と呼ぶようになり、いままでよりも篤い信仰が集まったという。
 荒痛文殊像は、行基作と伝えられる高さ4尺3寸(約1.42m)の立像。寛永9年(1632)に、禅林寺から江戸・浅草寺観音堂に移され、三十三年毎の文殊尊御開帳には、禅林寺住職が浅草寺に出向いて供養を続けていた。だが、惜しくも昭和20年3月の東京大空襲で焼失してしまった。










◇ 禅林寺の創建は鎌倉公方さま
開山・能山聚芸禅師像
(禅林寺蔵)
 釜利谷の禅林寺は、第4代鎌倉公方・足利持氏によって開創された由緒ある寺である。永享10年(1438)、持氏と京都の将軍・足利義教との関係が悪化、関東管領の上杉憲実も持氏から離反して「永享の乱」が起きる。持氏は、敗れて金沢の称名寺で剃髪し、翌年、鎌倉永安寺で自害に追い込まれた。
 のち、宝徳元年(1449)には、持氏の遺児・成氏も鎌倉公方に就いたが、またも将軍家や管領上杉憲忠らと対立。長い戦乱(亨徳の乱)の末に下総の古河に退いて勢力を張り、古河公方と呼ばれていた。
 遠く離れていても、先祖を敬慕する成氏は、下総・東昌寺の能山聚芸禅師に父持氏の供養を依頼した。かくして明応2年(1493)、 能山禅師は持氏ゆかりの禅林寺に開山として迎えられたのである。
伊丹三河守永親の墓
(禅林寺内)

 その後、釜利谷の領主となった後北条氏の家臣・伊丹三河守永親が、荒廃していた禅林寺を再建し中興開基となった。境内墓地には伊丹三河守永親の墓が建つ。
 伊丹家の子孫で、浅草寺知楽院忠尊僧正は、江戸城内の紅葉山東照宮別当を兼ねていた縁で、坂本村200石が東照宮神領となった。
 このため、釜利谷郷は赤井・坂本・宿3村のうち、坂本村だけが特別な待遇を受け、東照宮に奉仕することと、江戸城中へ正月の門松を献上する他は、すべての村役等が免除されていた。










◇ 家康公の肖像画
徳川家康公画像/部分
(禅林寺蔵)
 安永9年(1780)、東照宮より家康公の画像と金銀の御幣・祭祀道具類が禅林寺に下賜された。そのとき添付された書類には、「これらの下賜品は、毎年4月17日に寺の正殿に安置し、領民は丁重に参拝すること。当日参拝の済んだあとは村役人が立会いの上、封印して清浄の場所に保管すること。平日は住職といえども拝見してはならない。」などとある。
東照宮より名主宛の通達書
(禅林寺蔵)

 更に、村の名主と組頭宛にも同日付で通達書が出ている。「坂本村の年貢米のうち1石5升を祭祀料として禅林寺に納めること。その日、領民は農作業を休み参拝すること。神領地内は殺生禁断とすること。」など、きついお達しであった。
 徳川幕府の崩壊と共に、このお達しが無効になったことは言うまでもないが、禅林寺では毎年4月17日を家康忌とし、主要な年中行事として現在も守り続けている。












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