−歴史・伝説・民話を歩く−

楠山 永雄 著

2000年11月26日入力

   NO.32   雷神社の創建伝説


◇ 神社の境内を浦賀道
 六浦からの旧浦賀道は、侍従川の大道小学校近くに架かる「諏訪之橋」辺りが基点である。三艘<さんぞう>を通り国道16号に出て、瀬ヶ崎の横浜南共済病院前を追浜方向に歩く。横浜市と横須賀市の境界の信号を過ぎると、左手に赤いよだれ掛けの六地蔵や、庚申塔などの石仏群が祀られている。
 この辺りは、国道も京浜急行も平坦なところを走っているが、よくよく見れば切通しである。昔は鷹取山からの天神山脈が和田山・室ノ木まで連なり、この尾根道が武蔵と相模の国境であった。そして、十三峠へ続く浦賀道の最初の難所でもあった。石仏群から更に50メートルほど進むと雷神社の大鳥居の前に出る。旧浦賀道は、雷神社の一の鳥居と二の鳥居の間を南北に通り抜けていた。その南側の石段を下って進めば、左側に旧名主の屋敷跡などがあって、どことなく街道の面影が残っている。
 享保5年(1720)、浦賀奉行所が設置され伊豆下田から浦賀へ番所が移された。幕府は「江戸湾に出入いりする船舶は、必ず浦賀湊で船改め≠受けなければならない」と厳しく規制した。
 「入鉄砲に出女」。浦賀の番所は、陸の関所と同じように江戸を守る海の関所≠フ役割を担っていた。このため、江戸と浦賀を結ぶ陸路の「浦賀道」は、重要な街道として頻繁な往来があった。














◇ 落雷!乙女たちの命運は…    
  雷神社の創建由来に、こんな伝説がある。昔、女性の生理は不浄なものとされ、月のものが始まると自宅にいる事さえ許されず、浜辺にあった築島の「月小屋」で過さなければならなかった。そこには乙女たちが信仰する小さな祠<ほこら>が祀られていた。
 ある年の夏、乙女たち10数名は築島に集まり世間話に興じていた。そのとき、にわかに天候が急変する。鷹取山に暗雲が立ち込めたと見るや、激しい風雨とともに天地も裂けんばかりの雷鳴が轟く。築島に落雷したのだ。乙女たちは震えおののき、うずくまって一心に神仏に加護を祈った。
 やがて風雨も収まり、われに返って見れば全員無事で、カスリ傷を負った人もいない。だが、築島さまの祠は跡形もなく吹っ飛び、神木の槇柏<まきのき>は無残にも裂けて真黒く焦げ枝は飛び散っている。「築島さまが、私たちの身代わりとなって下さったのだ」、乙女たちは手をとり合って喜び、口々に神に感謝したのだった。
 この奇跡を聞いた領主の朝倉能登守は、自ら社領地を寄進して火雷命を勧請し築島さまを現在地に移建した。そのとき雷神社と命名したという。















◇ 雷神社と築島
 雷神社は承平元年(931)創建の記録があり、三浦半島屈指の古社といわれる。
 祭神は火雷命<ほのいかづちのみこと>、御神体は束帯騎馬の像である。古くは「いかづち神社」とか「かみなり様」などと呼ばれていたが、今は「かみなり神社」の名で通っている。海上安全や災害除けの守り神として、近郷の人びとの信仰が厚い。
 江戸時代には、この境内でしばしば雨乞いの行事があったという。明治になって境内を拡張し、社殿を現在の上段の地に移した。昭和23年に茅葺きの社殿が焼失、昭和30年にはひときわ異彩を放つ朱塗りの社殿が再建された。神奈川県の建築コンクール入選という優美で品格の高い建築物である。
 追浜銀座通りの第一勧銀裏手に築島という一画がある。「月小屋」のあった場所で、大正頃は黒松が群生し島の周囲には塩田の面影が残っていたという。
 現在は、「雷神社旧址の碑」が建ち、枯死してオブジェのような姿の槙柏が、この伝説を語り継いでいるかのようだ。

















映像/写真

(上): 旧浦賀道の基点に近い「侍従橋」(大正14年頃の絵葉書)
(中): 「和田山入口」信号附近の石仏群
(中): 優美な朱塗りの雷神社社殿
(中): 旧浦賀道は、この二の鳥居前を横切っていた
(中): 築島に建つ「雷神社旧址の碑」と神木の「槇柏」
(下): 雷神社発祥の地・築島(大正時代/田浦町誌)



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