−歴史・伝説・民話を歩く−

楠山 永雄 著

1998年01月18日入力
1998年09月23日更新
2003年07月06日更新

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    NO.1 小栗判官と照手姫

◇ 代表的な説教節
松葉でいぶされる照姫
(錦絵・豊原国周筆)
 瀬戸橋近くの"姫小島跡"など、金沢には照手姫伝説にゆかりの旧跡がいくつか伝えられている。
 「小栗判官・照手姫」の説話は、山椒太夫などと共に代表的な説経節であった。説経節は、もともと仏教の経典や教義を説くことだが、庶民に分かり易くするため譬え噺<たとえばなし>や神仏の霊験噺などで説明したことから多くの「語り物」が生れた。
 それに音曲を加えて浄瑠璃として語られたり、歌舞伎に上演されるようになった。大正期まではラブ・ロマンス説話として生き続けてい
人気のあった絵草紙の数々
たという。
 小栗判官や照手姫に関連した絵草紙や講談本は数多いが、ストーリーは次々と尾ひれが付いて千変万化している。ここでは、藤沢市の時宗総本山・遊行寺に伝わる「小栗略縁起」を中心に物語をたどることにする。







◇ 小栗主従、盗賊に毒殺さる
瀬戸橋近くの姫小島跡
(絵はがき/昭和6年)
 常陸・小栗城主の満重は、世に小栗判官として知られる智勇兼備の武将であった。応永30年(1423)、満重は謀反の企てがあると同士に讒言<ざんげん>され、鎌倉公方の足利持氏に攻められて小栗城は落城。主従11人は、一族のいる三河国をめざして落ちて行く。
 途中、藤沢の山中で一夜の宿をたのんだ家が、こともあろうに横山大膳という盗賊の家であった。いい獲物が来た≠ニばかり迎えた大膳は、酒宴をひらき毒殺して金品の略奪を企む。これを、故あって横山の家に身を寄せていた照手姫が知り満重にそっと耳打ちした。が、強引なすすめを断り切れず一口呑んだ酒で体中がしびれ息絶えてしまった。毒入りの酒と知らなかった家臣10人は全員即死。盗賊どもは衣服財宝を奪ったあげく死体を上野ケ原に投げ捨てる。
 その夜、遊行寺大空上人のご慈悲で蘇生した満重は、療養のため熊野の湯ノ峯温泉まで送り届けてもらった。
遊行寺長生院の「小栗略縁起」






◇ 姫小島のいぶし松
小栗判官と十勇士の墓
(絵はがき/昭和初期)
 一方、照手姫は大膳の家を逃れて六浦まで来たが、ついに追っ手に捕まり衣服をはがされ川に投げ込まれる。しかし千光寺の観音さまの功徳によって一命を取り止め、野島の漁師の家にかくまわれていた。ところが、漁師の妻は姫の美しさに嫉妬し松にしばりつけ、松の青葉でいぶし殺そうとする。姫が一心に観音さまに祈ると、たちまち風が吹いて煙は横になびき、またも仏の加護で救われた。
 性悪な妻は、ついに姫を人買いに売り飛ばし、次々売られて美濃の青墓宿の遊女に売られてしまった。瀬戸橋近くの"姫小島跡"が、その松葉いぶしの場所といわれる。
 乳母の「侍従<じじゅう>」は、六浦まで姫の後を追ってきたが行方が分からず、悲嘆のあまり姫の化粧具を残して川に身を投げる。のち、この川を「侍従川」と呼ぶようになった。
 また、千光寺(現在は東朝比奈に移転)前の土堤を化粧具に因んで「油堤」と云うが、「油包」からきたとの伝えもある。
 さて、満重は熊野・湯ノ峯温泉の薬効で本復し、京都に訴え出て謀反の疑いも晴れた。早速、遊行寺閻魔堂で大空上人の慈恩に感謝し家臣たちを弔う大法会を営んだ。こうして満重は再び小栗城主に戻り、まもなく横山一族を討ち、照手姫を妻に迎えて幸福な日々を過したのだった。
 満重の死後、照手姫は剃髪して尼となり、閻魔堂近くに住んで夫満重と従者の菩提を手厚く弔ったという。その跡が、遊行寺長生院といわれ、小栗判官、照手姫、十勇士の墓などが伝えられている。













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