
板垣恵介『グラップラー刃牙』(秋田書店)のネタ。
ガイドライン板「全選手入場のガイドライン」のネタともいう。
向こうに投下しようかとも考えたけど、あまりマニアック過ぎるのもウケないかなと思ったので見合わせた。
註部分が滅茶苦茶長いし。
構想5分・制作半年。著作権とか怪しいけど、出典明記してるからセーフだよね?
以下わかる人のみ。
(文中"*"クリックで解説文に移動。"戻る"も完備。)
注)1634年当時、既に鬼籍にある人物も登場します。ネタコンテンツなので勘弁・了承の程をお願いします
文責:平沼兵庫(海月殻)
――寛永十一年三月九日(*1)、江戸城・吹上御殿
徳川家光「日本最強の剣客を見たいか―――ッ!!」
オ――――――――ッ!!!!
家光「余もだ! 余もだ、みんな!!」
家光「剣客入場!!!」
松平信綱「全剣客、入場です!!!!」
全剣客入場!!
幻の七人斬りは生きていた!! 更なる研鑚を積み将軍家兵法指南が甦った!!!
剣豪!! 柳生但馬守宗矩(*2)だァ――――!!!
総合剣術はすでに我々が完成している!!
憲法流・吉岡源左衛門直綱(*3)だァ――――!!!
ぶつかりしだい唐竹割ってやる!!
薩摩鹿児島藩代表 示現流・東郷肥前守重位(*4)だァッ!!!
真剣の斬り合いなら我々の歴史がものを言う!!
無楽流居合 上泉派 上泉大学秀秋(*5)!!!
真の中条流を知らしめたい!! 秘剣燕返し 巌流(*6)だァ!!!
剣の腕は養父に譲るが名宰相の誉れなら全国はオレのものだ!!
豊前小倉藩家老 宮本伊織貞次(*7)だ!!!
理論武装は完璧だ!! 楠流軍学 由比張孔堂正雪(*8)!!!!
全武芸のベスト・ディフェンスは私の中にある!!
柔術の神様が来たッ 関口弥六右衛門氏心(*9)!!!
タイマンなら絶対に敗けん!!
旗本奴のケンカ剣法見せたる 直参旗本三千石 水野出雲守成貞(*10)だ!!!
バーリ・トゥード(毒害・忍術なんでもあり)ならこいつが怖い!!
上州?の総合武術家 浅山一伝斎重晨(*11)だ!!!
大陸明から炎の虎が上陸だ!! 中国拳法 陳元贇(*12)!!!
ルールの無い斬り合いがしたいからバウンサー(用心棒)になったのだ!!
プロの剣戟を見せてやる!! 幕屋与右衛門(*13)!!!
めい土の土産に「最強」とはよく言ったもの!!
剣聖の奥義が今 実戦でバクハツする!! 一刀流剣術 伊藤一刀斎景久先生(*14)だ―――!!!
宝蔵院流正統継承者こそが槍術最強の代名詞だ!!
まさかこの男がきてくれるとはッッ 宝蔵院胤舜(*15)!!!
闘いたいからここまできたッ キャリア割と不明!!!!
播州?のピット(ケンカ)ファイター 宮本武蔵玄信(*16)だ!!!
オレは心の一法で最強ではない平法で最強なのだ!!
御存知二階堂流 松山主水大吉(*17)!!!
新陰流の本場は今や伊達家にある!! オレを知ってる奴はいないのか!!
仙台柳生・柳生権右衛門厳倚(*18)だ!!!
若ァァァァァいッ説明不要!! 九歳(数え年)!!! 寛永三年生まれ!!!
田宮坊太郎(*19)だ!!!
剣術は実戦で使えてナンボのモン!!! 超実戦剣術!!
本家疋田陰流から山田浮月斎勝興(*20)の登場だ!!!
「最強」はオレのもの 邪魔するやつは思いきり叩き思いきり突くだけ!!
杖術統一王者 神道夢想流・夢想権之助勝吉(*21)
自分を試しに江戸へきたッ!!
念流全上州チャンプ 樋口十郎兵衛定勝(*22)!!!
一刀流に更なる磨きをかけ “夢想剣”伊藤孫兵衛忠一(*23)が帰ってきたァ!!!
今の自分に死角はないッッ!! 戸田流 林田左門(*24)!!!
中国武術との融合を果たした新陰流の奥儀が今ベールを脱ぐ!! 信濃から 小笠原源信斎長治(*25)だ!!!
門下生の前でならオレはいつでも全盛期だ!!
燃える闘魂 微塵流・根岸兎角(*26) 都落ち前の名で登場だ!!!
将軍家兵法指南の仕事はどーしたッ 闘士の炎 未だ消えずッ!!
処世以外は思いのまま!! 小野次郎右衛門忠常(*27)だ!!!
特に理由はないッ 兵法指南が強いのは当たりまえ!!
殿にはないしょだ!!! 日の下開山!
田宮対馬守長勝(*28)がきてくれた―――!!!
武者修行で磨いた実戦剣法!!
江戸柳生のデンジャラス・ライオン 荒木又右衛門保知(*29)だ!!!
実戦だったらこの人を外せない!! 超A級武人 大久保彦左衛門忠教(*30)だ!!!
超一流大名の超一流の剣戟だ!! 生で拝んでオドロキやがれッ
肥前鍋島家の鋼鉄人!! 鍋島紀伊守元茂(*31)!!!
新陰流はこの男が完成させた!!
柳生一門の切り札!! 柳生兵庫助利厳(*32)だ!!!
若き王者が帰ってきたッ
どこへ密偵に行っていたンだッ 天下の隠密ッッ
俺達は君を待っていたッッッ柳生十兵衛三厳(*33)の登場だ――――――――ッ
加えて負傷者発生に備え超豪華なリザーバーを四名御用意致しました!
大和郡山藩剣術指南 河合甚左衛門(*34)!!
霞流槍術 桜井半兵衛(*35)!!
剣法一羽流! 土子泥之助(*36)!
……ッッ どーやらもう一名(*37)は江戸城内に幽閉されている様ですが、釈放され次第ッ皆様にご紹介致しますッッ
主催者推薦(ガーレン枠):柳生左門友矩(*38)
ラスボス(笑) :愛洲移香斎久忠(*39)
ラスボス推薦(天内枠) :松林左馬助永吉(*40)
トーナメント表(一回戦まで)
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Bブロック三回戦前の語り
老人「この世で一番強い剣術でございますか……?
神道流、中条流……イロイロとございますなぁ。
ただ―― たった一つだけと言うのなら、やはり……
新 陰 流 でございます」
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以下に頻出する二史料の解説(どちらも武道書刊行会編『新編 武術叢書』人物往来社、1968.5に収録)。
・『本朝武芸小伝』(全十巻)
天道流の達人日夏繁高が、正徳4年(1714)に著した。
『干城小伝』ともいい、武芸全般にわたる列伝形式の書としては、最初のもの。享保元年(1716)刊。
・『撃剣叢談』(全五巻)
天保14年(1843)に、備前岡山藩士源徳修が著した。
剣術師範の家に生まれた徳修が、十数年間に見聞した全国諸流派の大要を、豊富な資料によって記述した書。
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*1 寛永御前試合です。知ってる人も多いと思うが、架空の出来事。このコピペはそれのパロディ。
勝海舟がどういうつもりか『陸軍歴史』に寛永11年9月22日の出来事として載せてしまったのが発端で、そのため史実と信じてしまった人も多かったらしい。
もっとも、原案は寛政時代まで遡れるとのこと。『陸軍歴史』版、その他の内容・勝敗は後述。
わざわざ寛永11年(1634)年3月9日にした理由。
一、9月は13日から日光社参で慌しく、主催する暇がない。
二、9月に主催すると、11月の伊賀越の仇討に荒木又右衛門らが間に合わない。
三、4月〜8月は家光上洛で江戸での主催は不可能。
四、前年師走に駿河大納言忠長(家光の弟)が自刃したので、正月に御前試合は憚りがありそう。
五、たまたま3月に何か暇そうな記事があった。
上記五点のうち、五が占める部分が何気に大きい。
○九日御茶事あり。朝は加賀薩摩両黄門。森美作守忠政。松平長門守秀就。細川越中守忠利。松平越前守忠宗。夕は松平伊予守忠昌。松平新太郎光政。松平安芸守光晟。立花飛騨守宗茂。鍋島信濃守勝茂。佐竹修理大夫義隆召に応じてまうのぼる。(後略)
○十日けふも御茶給ふ。朝は京極若狭守忠高。京極丹後守高広。松平阿波守忠英。松平土佐守忠義。松平右衛門佐忠之。有馬玄蕃頭豊氏。昼は松平出羽守直政。宗対馬守義成。伊達遠江守秀宗。生駒壱岐守高俊。松平大和守直基。松平右近大夫輝興。松平土佐守直良召に応ず。はてゝ松平隠岐守定行。保科肥後守正之。松平式部大輔忠次。奥平美作守忠昌。内藤左馬助政長。小笠原信濃守長次。石川主殿頭忠綱。戸田左門氏鉄は。黒木書院にて饗給ひ。御茶室に召て御茶下さる。
――黒板勝美・国史大系編修会編『徳川実紀』第2編(新訂増補国史大系 第39巻、吉川弘文館、1964.10)626頁
多数の国持大名(主に外様)が家光の召しに応じて茶を賜っている(名前でググればわかると思う)。
出場剣士と関わりのある大名は、薩摩黄門(島津家久。東郷重位の主人)・細川忠利(松山主水の主人。のち宮本武蔵を招く。また巌流は父忠興に仕えたという)・松平忠宗(伊達忠宗。のち松林左馬助の主人)・鍋島勝茂(鍋島元茂の父)・松平忠之(黒田忠之。夢想権之助・林田左門・根岸兎角の主人。ちなみに当時「黒田騒動」で領地を召し上げられている)・生駒高俊(田宮坊太郎の父の主人)・小笠原長次(小笠原長治の超・遠縁)・戸田氏鉄(桜井半兵衛の主人)。
茶会に列席したのはごく一部で、松平忠明(荒木又右衛門・河合甚左衛門の主人)と小笠原忠真(宮本伊織の主人。当時の武蔵の庇護者)も江戸にいたことが前後の記述でわかる。
細川忠興・伊達政宗は在国で間違いないが、肥前唐津藩主の寺沢堅高についてはわからない。
とにかく、これだけ有力大名が史料上に一堂に会していれば「ネタにしてくれ」って言ってるようなもん。茶会だけなんて勿体無い。そんなことより御前試合やろうぜ!
……という理由で、この私家版・寛永御前試合は寛永11年3月9日と10日の2日間にわたって開催されることになった。
当時徳川家光は30歳。まだ「わしもじゃ!」っていう年齢じゃないので悪しからず。
アナウンサーは松平信綱。智慧伊豆の異名をとった筆頭老中にして、家光の寵臣。妙に英語に堪能ですが気にしない。
*2 柳生但馬守宗矩(1571~1646)
1594年から徳川家に仕え、秀忠・家光の兵法師範。
関ヶ原の戦いで戦功、2,000石。翌1601年、3,000石(秀忠の兵法師範となるのはこの頃)。
1624年、家光の兵法師範。1629年、従五位下但馬守。1632年、大目付。
1636年、大名・柳生藩主10,000石。1639~1640年、2回に分けて加増され12,500石。
将軍家三代にわたる剣道指南を行なったほか大名酒井忠勝・鍋島元茂・細川忠興らも門弟で、他の門弟らも各大名家の師範として迎えられた。
特に家光の信頼篤く、手ずから稽古を施したほか、たびたび屋敷の訪問を受け、病床に就くと前後三回も見舞いを受けている。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十七(続群書類従完成会、1965.11)
市古貞次他編『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、1998.11)
藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典』第三巻(新人物往来社、1987.4)
上泉伊勢守から“一国一人”の新陰流印加を受けた柳生石舟斎宗厳の五男。十兵衛三厳・左門友矩・又十郎宗冬・芳徳寺列堂義仙和尚の父。
現将軍家兵法指南役にして、江戸柳生の総帥。一介の武芸者から大名監察組織“大目付”の一員となり大名の座を手にした天才。
しかし、官僚としての能力が突出しているだけで、剣の腕は同じ初代将軍家兵法指南の小野次郎右衛門忠明や尾張柳生家の兵庫助利厳に劣るとされる。
「活人剣(かつにんけん)」「剣禅一如」「治国平天下の剣」を提唱し、剣よりも思想で仕えたという宗矩が「殺人刀(せつにんとう)」を振るったとされる逸話が「幻の七人斬り」。
大坂夏ノ陣で徳川秀忠が豊臣方の部将・木村主計の奇襲にあった際、柳生宗矩は単騎で秀忠の間近に迫った七人(人数に異同あり)の武者を瞬殺したという。
堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)に、
「元和元年大阪夏陣の時、城方が討って出て、秀忠の営を囲み、なほ真田の設けた地雷火を以て陣を焚かれ、人馬共に傷付き、東軍はそれが為めに騒擾して甚だ危くなった。
此機に乗じて城兵木村主計が、素肌の兵三十五人を以て秀忠に迫った。之を宗矩が七人を斬り更に進んで戦った。猶、木村は安藤治右衛門が負傷して討取り、後安藤も死んだ」
とあるのが元だが、寡聞にして初出史料を知らない。
ちなみにこの逸話は『徳川実紀』のような公式記録には一切残っておらず、創作の可能性が高い……が柳生家の人や柳生研究家も認める事実であるらしい。
『大日本史料』12-19あたりに所収『村越道半覚書』の記述の事件が逸話の元か。以下要約。
「元和元年五月六日酉刻、砂村に於いて敵襲により台徳公(秀忠)の陣容崩る。近習の面々退散、されど黄昏のことで誰が崩れたか知れず。井伊掃部頭(直孝)、台徳公を諫めてこれを鎮む」
また『武徳編年集成』にも敵勢の埋火(地雷)で秀忠の陣容が崩れたという記述がある。
他史料にも「秀忠の陣は寡兵が従うのみ」という記述が多くあり、それらを合わせて木村主計奇襲説が生まれたものと思う。
「幻の七人斬り」というフレーズ自体は、この逸話から特に九人斬り説を元にした滝口康彦氏の短編小説「幻の九番斬り」(新潮文庫『権謀の裏』に収録)から。
この七人斬りの記録は、柳生家の重臣萩原斎宮信之の筆であり、東京の柳生本家に所蔵されている『玉栄拾遺』(全8巻、神代から1753年までの柳生家の系譜を追って各代の記録を日記風に記述したもの)にも収録されていない。
この他にも妙な逸話が多い。猿を飼っていたとか、沢庵宗彭に「煙草を遠ざけろ」と言われてメートル単位の長煙管を作ったとか……。
また、兵庫助利厳の妹を勝手に家臣・柳生主馬に嫁がせて以来、尾張家との仲が険悪化したともいう。
12,500石は剣豪としては最高と思われがちだが、加賀前田家には彼を上回る13,000石の富田越後守重政(中条流の“名人越後”)がいたりする。
*3 吉岡源左衛門直綱(????~????)
京都に剣術道場を構え、憲法と称した家の当主。憲法流は鬼一法眼の京八流の末とも、神道流・新当流の末ともいう。
曽祖父直元は足利義晴に仕え軍功があり、その弟憲法直光は兵法師範であった。
父憲法直賢は義昭の師範で新免無二斎(宮本武蔵の父乃至養父)と試合したと伝えられる。
この直賢の子が源左衛門(はじめ清十郎、のち憲法)直綱・又市直重・清次郎重堅。
武蔵と戦い敗れた(ちなみに吉岡家側の史料では勝ったことになっている)のち、兄弟は共に天竜寺の大徳円鑑国師に参じ、透関不住・学宝宗才と号した(『吉岡伝』)。
吉岡一門は大坂の陣では京都所司代の静止に抗い大坂入城。
敗戦後は再び兵法を家業とするを恥じて道場を閉じ、染物業(門人李三官伝の墨染)に転じた。
しかし憲法流は絶えたわけでなく、一門の吉岡加兵衛が後世に伝えたという。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
吉岡直光は京流兵法を学んだ。師は祗園藤次ともいうが明らかでない。
父・直元の軍功で足利将軍家に仕え兵法師範。道場を兵法所と称した。
子の直賢は義昭の師範。美作の新免無二と試合で負ける。
直綱は天正7年(1579)の生まれ。25,6歳で武蔵と戦い、負けてのち剣を捨てたという。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
生没年未詳だが、上記堀説を採るなら、寛永11年(1634)の試合当時55歳。さほど無理な年齢設定ではないと思う(死んでなければの話)。
でも対戦表の都合で大久保彦左衛門に負けちゃうのはどうなんだろう……。
*4 東郷肥前守重位(1561~1643)
1561年、薩摩島津氏の臣・東郷藤兵衛重為の次男として生まれる。
諱の読みは東郷家では「ちゅうい」(示現流の根本「忠」に通じるため)。
はじめ藩の師範・東権右衛門(小太郎)正直と藤井六弥太続長(共に丸目蔵人の門人)からタイ捨流を学んだ。
のち1588年、藩主島津義久に従って上洛した際、京都の天寧寺の僧善吉から自顕流兵法を学びその奥秘を得た。
善吉22歳、重位28歳であったという(京都天寧寺創建年代より前、一考を要す)。
この自顕流は常陸国の人、十瀬与三左衛門長宗が神道流の剣を極め、さらに下総国の香取神宮に祈り夢想を得て創始した流儀だという。
長宗はこれを金子新九郎に伝え、新九郎はこれを赤阪弥九郎政雅に伝えた。この政雅が善吉である。
重位は帰国後さらに工夫を積み無敵の境地に達し、試合に勝つこと46度、1598年(一説に1604年)に東新之丞(権右衛門の子)を破り藩主島津家久の厚い信頼を得、藩の師範となり多くの門人を指導するようになった。
また家久は尊信厚かった僧文之の進言により、法華経に見える「示現神通力」の語からとって流名を示現流と改めさせた(この流名改称については諸説ある)。
重位は1643年、83歳で没したが、その伝統は長く鹿児島藩に盛行する。
この流儀は義気により一切の迷いを去り、敵に向かっては機先を制してただ一太刀に勝負を決するのを本旨とした。
道場は屋外に設け、柞(ゆす)の木の枝を切って棒のまま木刀として用い、一心不乱に立木を打って気力・体力を養成するのを修行の根本とし、また対敵の形もきわめて激しい実戦的なものであった。
なお重位の高弟に同藩士・薬丸兼陳が出た。この伝統は以後薬丸家代々に受け継がれ、野太刀自顕流とも薬丸(やくま)流とも称し、この派では横木打を基本とし特に豪放な技を伝えた。
維新の志士が多くこの門から出ている。
示現流も野太刀自顕流も、今日鹿児島地方によく保存されている。
参考:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第10巻(吉川弘文館、1989.9) * 東郷重位の項
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985.11) * 示現流の項
綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
パワーとスピードに優れ一撃必殺を旨とし、また独特の構え「蜻蛉」で知られる示現流の祖。
*5 上泉大学秀秋(????~1647)
この人は誤伝が多く、名前も権右衛門秀信、孫次郎義胤、義郷など統一されていない。
取り敢えず主立った物を挙げ、決定稿と思しき物を最後に挙げる。
上泉権右衛門秀信という無楽流の剣士が尾張の柳生兵庫を訪ね、居合で勝負したところ互角であったので、兵庫は彼を尾張公に推挙して仕官させた。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
「武業雑話・武術名家伝や張藩師系禄などによると、上泉流(居合)は上泉権右衛門秀信が流祖となっている。秀信は新陰流祖の上泉武蔵守の実子である。
新陰流の兵法を悟り得るような器量でないとみた父武蔵守は、指図して彼を長野無楽斎の弟子として居合を修行させた。
彼は心を砕いて熱心に修行を重ね、遂に名人となった。
やがて彼は諸国を巡り、尾張の柳生兵庫の許にやってきた。
兵庫の父石舟斎の師匠である武蔵守の子であるので、至って懇切にもてなし、そして尾張に留るように取計らった。
秀信が「出来れば当地に居合の指南をしたい」と申し出たので、兵庫は高弟の高田三之丞と試合をさせた。
この試合で、最初の一本は三之丞が取り権右衛門は抜く事が出来なかったが、暫らく工夫してまた立合ったところ二本目からは三之丞は勝つことが出来なかった。
そして秀信を賞して言うには、「さてさて神妙な術である。恐らく天下に勝つ者は無かろう」と。
そこで兵庫の推薦によって尾張藩に仕え、上泉流の指導に当った。柳生一族を先として藩中その指南を受ける者が多かった。
また別に、当流の流祖を上泉孫次郎義胤とする説がある。
義胤は長野無楽斎の門人で、新陰流祖の上泉武蔵守の族縁の者であるといい、一説には武蔵守の孫であるという。これについてはなお後考を俟ちたい」
「信綱の後は、息子の秀綱が嗣いだ。
秀綱は撃剣叢談によると、禁裏へ父子とも参内し、伊勢守は従四位下武蔵守に任じ、子は従五位下常陸介に任じて天下に名を顕した。
息子の常陸介は、後井伊家に仕えて大坂御陣前に病死したとある。
秀綱は特に兵学に勝れていたが、武術流祖禄には、岡本半助が小笠原家訓閲集を上泉常陸介秀胤に習い、よく軍配に達すといい、又秀胤は父武蔵守信綱の伝を継ぎ、信綱は小笠原宮内大輔氏隆に習い精妙であったといわれ、世人が推して氏隆流、又上泉流といったとある。
次の子供の権右衛門は長野無楽斎の弟子として居合の修行を重ね、上泉流居合の祖として知られる」
参考:富永堅吾『剣道五百年史』(百泉書房、1972.3)
誤字なのか史料に記されているままを書き写したのか、情報の錯綜が激しい。
前後の内容を加味して考えると、長野無楽斎に学んだ上泉氏は上泉伊勢守信綱の孫、ということになる。
○尾張影流(剣)
祖は上泉権右衛門義胤。
○上泉流(居合)
正しくは無楽流上泉派という。上泉権右衛門秀信。常陸介秀胤の子で初め孫次郎義胤(一に義郷)といった。
長野無楽斎槿露の門人で無楽流に達した。井伊直政に寄食し、後に尾張藩に仕え200石、岡村新之丞と改めた。
尾州伝『柳生新陰流縁起』には、上泉伊勢守孫、孫四郎とあり、柳生如雲の門人高田三之丞と試合して負けたのを残念におもい、紀州へ行って田宮むらく(田宮流長野夢楽)に学び、上泉流居合を大成した、とある。
正保4年12月11日死(『士林泝』)。後に民弥姓に改称して、流名も民弥流に変わった。
○御当流(軍法)
岡山藩で、上泉治部左衛門義郷(義胤とも)の上泉流をいう。上泉常陸介秀胤の子。
寛永18年、池田光政に仕えて300石、軍学を教授した。
寛文12年7月8日病死、81歳。
○新陰流(剣)
(中略)秀胤の子、権右衛門義胤(一に義郷)は通称を孫次郎(また治部左衛門)という。
父のいいつけで長野無楽斎槿露に入門し、無楽流居合に達した。
○民弥流(居合)
上泉流居合の改称。上泉秀信、改称して民弥権右衛門という。
上泉秀胤の実子だが、秀胤は自分の新陰流を授けず、長野無楽斎に居合を学ばせた。
後に尾州徳川の柳生家に来て居合を教えたが、寛永元年ごろのことで70歳近くだった。
隠居して是入といい、無刀で暮らした(『昔咄』)。
参考:綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
上泉権右衛門義胤は、上泉信綱の孫で、秀胤の子。通称孫次郎。名は一に秀信、義郷。
のち、民弥権右衛門宗重と改めた。隠居名是入。
無楽流上泉派居合。御当流軍法、民弥流。
文禄元年(1592)〜寛文12年(1672)没年81。生年不詳、正保4年(1647)没と両説のせているのが『大事典』
父の秀胤は器量でないという理由で神陰流を授けなかった。
しかし上泉流軍法は授けていたので、これで井伊家(直政)に寄食し、のち備前の池田光政に仕えた。
秀胤は林崎甚助の流れである長野無楽斎槿露に頼み、義胤に居合抜刀の術を学ばせたのはこのあとのことらしい。
義胤は武者修行に出、やがて尾張の徳川に仕えるようになる。
仕官の際、柳生利厳の高弟高田三之丞と試合した。試合は居合三番で、一本目は高田が勝つが、二本目、三本目は義胤が勝ったという。
参考:杉田幸三『精選日本剣客事典』(光文社、1988.8)
杉田氏の記事が一番まとまっているように見えるが、実は大変な誤り。
上泉文書をもとに書かれた下記の諸田氏説の方が信憑性が高い(やや身贔屓、牽強付会も見られるが)。
「武術名家伝」には上泉権右衛門秀信、「本朝武芸小伝」「武術流祖禄」には、上泉孫次郎義胤となっている。
更に「柳生文書」では上泉孫四郎となっているのだから紛らわしい。
またその上「常山紀談拾遺第二」に上泉治部左衛門義郷なる人物があり、この人とも混交されているので一層複雑だ。
実はこの上泉治部左衛門義郷は彼の子である。親子の混交であるから許さるべき筋のものであるが、年表を繰ってみれば、これは一目瞭然の事だ。
こうした事実が判明したのも上泉文書の有難さである。
名古屋上泉家の史料によると上泉孫四郎(大学秀秋)は岡村新之丞、民弥権右衛門宗重とも変姓名したと記している。
江戸中期に編まれた近松幾之進による「昔咄」には、彼は晩年上泉是入斎と号して、宛然神仙の如くであったという。
彼は上泉信綱の三男、上泉源左衛門尉行綱の子として、小田原上泉屋敷に生まれた。初名上泉大学秀秋である。
生年は定かに出来ないが、「昔咄」によると寛永年代において70余歳であったというから、恐らく天正4,5年頃の生まれであると考えられる。
この点からも秀胤の子という説は考えられない。
父行綱は祖父信綱晩婚の子であったがために、彼の年齢は信綱の曾孫といっても良い程だ。ここにも彼の間違われる原因が潜んでいるようである。
更に父行綱が、故あって一時期石森姓を称えており、この事もまた彼が生涯に何度も改姓名した遠因となっているのかも知れない。
天正18年(1590)小田原北条氏の滅亡時この大学はまだ13,4歳の少年であった。
従兄といってもその年齢は父の行綱と同様であった本家の上泉主水佐泰綱を中心として、上泉一族は上州館林・越後春日山・会津・羽州米沢と転住し、彼も父行綱に従ってその行動を共にした。また、後に彼の師となる長野無楽斎槿露もその当初はこの上泉一族と行を一にしていたものと思われる(上泉文書)。
上泉文書によると、父行綱は越後に於いて死亡し大学秀秋は上杉氏が会津移封時に他国した(旅に出た)とあるから、この頃彼が会津に程近い山形の楯岡辺で抜刀居合術の名手として既に大成していた長野無楽斎に師事したものであると考えるのは、極めて自然である。
あるいはこの両者は、小田原上泉屋敷に於いて十歳ほどの年齢差はあっても、兄弟同様の関係にあったのかもしれない。
次第に変姓名して、石森権右衛門秀秋、上泉権右衛門秀信となったが、通称は上泉孫次郎または上泉孫四郎で押し通したという。
これは剣聖上泉信綱の孫であるという彼の誇りと自負心が、そうさせたものであろう。
尾州柳生家に試合を申入れた時も、上泉孫四郎名であったと柳生文書にある。孫次、孫四の文字面から考えると、或は行綱の次、四男であったのかも知れない。
この時の様子は「柳生文書」に以下のようにある。
「上泉孫四郎儀若輩成時分父相果申候故父の名は承り申さず候、兵法之位心持委細成相伝は無御座候共、伊勢守孫にて御座候故如雲方へ仕相に参り候、
高田三之丞出合両度仕相仕候、片手にて三之丞勝申し候故、三之丞が弟子になり稽古は如雲方にて仕り候、
此儀を孫四郎至極無念に存じ紀州へ参り田宮長勝の弟子になり無間一流相極申候、殊更古今稀なる手柄を仕り流儀の名を上げ申候、
師匠に断り上泉流の居相と名を改め申し候、其器量祖父伊勢守にも相違申間敷如雲初感申候、その後名も両度斗も改申候(後略)」
しかしこの記述は一寸怪しい説であると思われる。
兵法にまったく無縁であったという人物が、当時天下の名人とされた尾州家兵法師範柳生兵庫に試合を挑む事自体が、すでに不自然である。
またそれ程短期間に古今の名人になれる筈もない。
果せるかな「武術名家伝」その他が伝える諸説は、この時柳生兵庫自身が立会い、両度試合したが相打となり、無勝負に終ったというのである。この方が真相であろう。
上泉孫四郎は兵法者として、類稀なる血を享けた人物である。
祖父は剣聖上泉信綱であり、祖母は北条氏名代の勇将「地黄八幡」と異名をとる福島改め北条綱成の娘である。
それに父行綱も北条家兵法師範として新陰流の達人であったから、彼は幼時よりその天稟に磨きをかけた人物に相違ない。
加えて名人長野無楽斎槿露に師事して抜刀居合術の蘊奥を極めたのであるから、柳生文書が語る「祖父伊勢守にも相違申す間敷く」というほどの兵法者に大成したものであろう。
それなればこそ名人柳生兵庫との相打の勝負もまた当然の事であった。
正保4年12月11日、70余歳、名古屋に於いて没した。
この上泉孫四郎が尾張上泉家の祖である。
男児二人あり、長子弥五兵衛秀守がその跡を継いだ。次子が治部左衛門義郷といって、岡山藩に仕えた。即ち岡山上泉家の祖となった人物である。
治部左衛門義郷は上泉流軍学師範として、池田家にあって重用された。
参考:諸田政治『上毛剣術史』中(煥乎堂、1984.12)
諸田氏説だと無楽流で柳生兵庫に挑み、相討ちだったとある。
私見だが大学秀秋は一度兵庫なり高田三之丞なりに負け、田宮流を学び直したのだと思う。
そして田宮流を称え、後に宗家を憚って「民弥」に改称したのではないか?
流名を改称することは、鐘捲自斎が富田家から学んでのち、宗家の「富田流」(本来は中条流)を称するのを憚って「外他(とだ)」の字を充てた故事がある。
とりあえず今回は新陰流ではなく無楽流の剣士で出場という事にする。
……何だか「真剣の斬り合いなら我々の歴史がものを言う」とか看板に偽りがある気がしますが。
でもジャガられて終わり。ひどい。
*6 巌流(????~1602/1612)
岸流(割注・一に佐々木岸流と云ふ)
一、岸流は、右に云ふ宮本武蔵と仕合ひせる岸流が流也。岸流流と云ふべきを、略して呼びならはせる成るべし。
今以て西国に此の流多し。諸国にも往々其の名を聞けり。
此の流に一心一刀と云ふ事有り。
是は大太刀を真向におがみ打ちする様に構へて、つか/\と進み、敵の鼻先を目付にして、矢庭に平地まで打込む也。
打つなりにかゞみ居て、上より打つ処をかつぎ上げて勝つ也。
因州鳥取に、小谷新右衛門といふ者も此の流の師たり。
――『撃剣叢談』(武道書刊行会編『新編 武術叢書』人物往来社、1968.5)
越前国浄教寺村の生まれで、武蔵との試合当時68〜70歳であったという。
小次郎は富田勢源の門人で、幼少から勢源の打太刀を務め、仕太刀は小太刀、打太刀は三尺余の大太刀であった。
次第に高弟中に及ぶ者がなくなり、勢源の弟・治部左衛門景政(のち中条流富田家を継ぐ)にも勝ったという。
その後越前を去って諸国修行中、豊前小倉で細川忠興が彼を師範に迎えた。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
以下、彼の師とされる鐘捲自斎と共に紹介する。
○鐘捲流(剣、槍、柔)
一に外他(とだ)流ともいう。鐘捲自斎が祖である。名は通家とも通宗ともあり、また外他姓も用いた。
富田治部左衛門景政に学び、山崎左近将監・長谷川宗喜とあわせて「富田の三家」と謳われた。
小太刀より入って、中太刀に有利な一流を創めたのが鐘捲流である。慶長年中の人というが、生没共に不明。(中略)
なお鐘捲自斎を富田景政の門人とする通説は、疑わしい。
『剣術系図』『武芸伝系』等には、自斎を戸田清元(清玄、清源)の門人としているけれど、清元の実体が不明なので治定できない。
自斎が佐々木小次郎に出した免許状に、「富田入道勢源門流、後学鐘捲自斎」とあるのを正しいとすれば、自斎は富田勢源の門人、佐々木小次郎は自斎の門人というべきであろう。(後略)
○巌流(剣)
佐々木小次郎巌流。岸流とするのは俗説である。越中の中條流宗家富田勢源の家人というが、確証はない。
後、細川三斎忠興につかえた。慶長17年4月13日、船島で宮本武蔵玄信と試合して殺された。
享年18歳と『肥後異人伝』にいうが、富田勢源の家人だったとするなら、この時70歳近くの老武人であったはずである。
富田勢源門人の鐘捲自斎から、佐々木小次郎宛の伝書がのこっている。自斎の門人とみるならば、かならずしも老齢であったと決められない。
それにしても、宮本武蔵より若年とは考えられない。
○岩流(剣)
文禄ごろ。伊豆の人、伊藤左近祐久。
代々中条流を伝え、新陰流・新当流等十八流をきわめたが、納得せず、工夫して風車・虎切・献追の三枝を会得し、「春風になびく柳の糸ゆうも岩を潰さばくずれぬるべし」として、岩流と名づけた。
丹後の京極高次家臣、多田善右衛門一至斎有閑を経て、香河信濃重信から鳥取藩に伝承した。重信の子香河正信は有名。
佐々木巌流の巌流剣術とは別系のようでありながら、類似の点もある。
大太刀を用いることは佐々木の場合はフィクションらしく、自斎が小次郎に与えた免許状には中太刀・小太刀とあって大太刀はないけれど、こちらの岩流剣術では大太刀を用いる。
また、極意中の虎切は、佐々木の燕返しと同じ技である。
なお多田善右衛門の弟、市郎が、下関のあたりで宮本武蔵と試合をして勝ち、武蔵はその門人になったが、後に謀計によって市郎は武蔵に殺された、という話がこの流に伝わっている。
参考:綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
この『武芸流派大事典』に見える「鐘捲自斎が佐々木小次郎に出した免許状」というのは、武道研究家・山田忠史氏が発見した史料。
中条流太刀法
一、表 電光・車・円流・浮舟
一、裏 金剛・高山・無極
一、右七剣 神文之上 口伝伝授之書
月 日
越前宇坂之住浄教寺村
富田入道勢源門流
後学鐘巻自斎
佐々木小次郎殿
……というもの(綿谷雪『図説古武道史』青蛙房、1967.10)
また、岩流の流系に小谷十右衛門、治右衛門の名が見える。
鳥取に伝承ともあるので『撃剣叢談』記載の岸流は、この岩流のことと思われる。
『本朝武芸小伝』巻六宮本武蔵の項に「巌流は物干ざほと名付し三尺余の太刀を以て勝負をしたり」とあり、宮本武蔵墓志にも「巌流手三尺余之白刃」と記され、大太刀を用いることがすぐれていたようである。
参考:笹間良彦『図説日本武道事典』(柏書房、1982.11)
佐々木小次郎は越前国浄教寺(一説に周防国岩田)の生れで、中条流の名人富田勢源の高弟というのが通説である。
中条流は小太刀を使うので、勢源は1尺5寸の小太刀を使ったが、小次郎には3尺余りの大太刀を持たせて訓練した。そのため小次郎は「物干竿」と異名をとる大太刀を使うようになったという。
その後勢源のもとを退き、一流を立てて巌流と号し、諸国武者修行の旅に出た。
豊前の小倉藩で剣術教授にあたっていたが、1612年4月宮本武蔵と舟島(のち巌流島)で闘い敗れたとされる。
江戸時代の講談や芝居では武蔵の父の敵として登場する老剣客だったが、吉川英治『宮本武蔵』や村上元三『佐々木小次郎』以来、長剣「物干竿」を背負い、燕返しの秘剣を使う颯爽とした青年美剣士となっている。
参考:ネットで百科(http://www.kn-concierge.com/netencyhome/)
武蔵との決闘で即死したとする説、息を吹き返したが武蔵の門人達に謀殺されたとする説が主流だが、没年不詳とする説も一応ある。
今回は没年不詳説を採り、武蔵と再戦させてみた。
長剣を使いつつ小太刀主体の中条流の真髄というのは無理があるかもしれないが、それはそれ、これはこれ。
小太刀のリーチの短さの長所・短所を知り尽くしているからこそ何とやら云々、ですよ。
上記綿谷説のように、小次郎は鐘巻自斎に師事したとされるので、伊藤一刀斎とは兄弟弟子である可能性が濃厚。
まあ、以下の説を参照すると中条流かどうかも怪しくなるんだけど。
最近の研究では「佐々木小次郎」という名の剣客は存在しないという説が出された。
(前提:宮本伊織の武蔵顕彰碑『小倉碑文』に舟島で武蔵に敗れた剣士は「巌流」とのみあり、姓名不詳。武蔵は自著に記さず。)
以下、順を追って紹介する。
一、武蔵の弟子筋・丹治峰均の著『武州傳来記(兵法大祖武州玄信公伝来)』(1727)に、舟島に散った剣士を「津田小次郎」と記す。
津田小次郎は武蔵の父・無二に挑むが無二は決闘を断る。「無二は臆した」という評判が立ち、激した武蔵(当時弁之助、19歳)は小次郎を挑発して試合に持込む。
小次郎は長門国長府の国人で、『二天記』にいうような豊前細川藩の兵法指南役ではない。年齢は武蔵より相当上で、無二と同年輩と思われる。
勝負はほぼ相討ちで、小次郎の刀の平(側面)が武蔵の首に当たり、武蔵の木刀は小次郎の頭に当たる。武蔵は小次郎が尻餅をつくところを二度打って仕留めた。
決闘は1602年で『二天記』の記述の1612年の10年前となる。
二、「佐々木」姓の初出は歌舞伎『敵討巌流島』(1737)の「佐々木巌流」。
当時、幕府は現実の事件の劇化を禁じていたので、実在の人間をモデルとする場合は仮名にする決まりであった。
『忠臣蔵』で大石内蔵助を大星由良之助としたように、武蔵に該当する主人公の名は月本武者之助となっている。
同様に、佐々木巌流という名も、実在の人間の姓を改変したものでなければならないはず。
三、「佐々木小次郎」の初出は安永5年(1776、歌舞伎公演の約40年後)刊『二天記』(武蔵弟子筋・豊田景英の著)
この書の元となった『武公伝』(景英の父正脩の著。武蔵の晩年の弟子による口伝、武蔵の著書、小倉碑文、武芸小伝等の武蔵に関する記述をまとめたもの)には「巌流小次郎」とのみある。
「佐々木」姓は歌舞伎の評判を伝え聞いた豊田景英が付け加えたものではないか?
参考:福田正英「佐々木小次郎はいなかった ―考証・巌流島―」(『宮本武蔵研究論文集』歴史研究会出版局、2003.12)
そんなわけで巌流は佐々木小次郎なんかじゃなくて津田小次郎かもしれません。
ちなみに未プレイだけどFate/stay nightの小次郎は津田姓らしいね。きのこ先生は勉強家だなぁ。
でも、この「佐々木小次郎不在説」を是とすると、山田忠史氏発見『佐々木小次郎宛、鐘捲自斎の印加書』の史料的価値は大幅に損なわれることになる。
諸説考え合わせた上での私見だが、順番的に、
一、津田小次郎巌流、武蔵に挑み敗れる(宮本伊織、『小倉碑文』に「巌流」とのみ記す)
二、伊藤左近、巌流にあやかり流名を岩流とする(大太刀・虎切を強調)
三、丹治峰均、『武州傳来記』に「津田小次郎」と記す
四、歌舞伎脚本家、岩流の伝承を聞き巌流燕返しに翻案、「佐々木巌流」と名付ける
五、豊田正脩、『武公伝』に「巌流小次郎」と記す
六、豊田景英、歌舞伎の評判を伝え聞き「佐々木小次郎」と記す
七、源徳修、うっかり『撃剣叢談』に伊藤左近の岩流を佐々木岸流の岸流として載せてしまう
八、吉川英治、著作『宮本武蔵』で通説外の新設定で新たな佐々木小次郎を創造
九、山田忠史氏、佐々木小次郎宛の鐘捲自斎の印加書を発見・発表
十、混乱する俺ら ←いまココ!
……となるものと思われる。
*7 宮本伊織貞次(1612〜1678)
小倉藩家老。通称は伊織、名は貞次。
慶長17年10月21日、宮本武蔵玄信の兄田原甚兵衛久光の次男として、播磨国印南郡米堕(よねだ)村に生まれたという。
藩主小笠原氏が播州明石在封時代、宮本武蔵を召し抱えようとして交渉したが、武蔵は仕官の意志がなく、兄の田原久光(武蔵は田原家から作州の宮本家の養子となった)の二男伊織を養子としていたので、寛永3年伊織を身代わりに仕官させた。
同8年家老になり、翌9年藩主小笠原忠真は豊前小倉に移封、伊織も小倉に移った。宮本家の家禄は二千石で、小笠原氏の家来としては最高の知行で遇せられた。(中略)
伊織は武蔵から武技はもちろん兵法と武士の処世を徹底的に鍛えられた。
小笠原藩の家老になってからも、忠真・忠雄の二代の藩主に仕え、つねに藩主の側近にあった。
藩主の江戸参勤には必ずといってよいくらい随行しており、忠真が幕命によって長崎衛戌の役に就いたり、肥後細川藩の後見の役に就くなどで、長崎や熊本に赴いたときも、伊織は必ず随行している。
また、寛永15年島原の乱に際しては、小倉藩の侍大将として出陣、武蔵も伊織の側につき大きな活躍をした。福岡藩主黒田忠之からも褒美をもらうという異例の功績をたてた。多くの功労により四千石に加増された。
養父の武蔵は生涯仕官をしなかったが、熊本藩主細川忠利の懇請により、客分として細川藩にとどまり、正保2年熊本で没した。
伊織は武蔵の生涯と徳を称えるため、承応3年武蔵の碑を建立した。この碑は、小倉城下の東方2kmの地に伊織が藩主忠真から拝領した手向山の頂上の平地、かつて武蔵が佐々木小次郎と決闘した舟島を眼下に見下ろす地に建てられた。
(中略)伊織は延宝6年3月28日没。
宮本家の当主は代々小倉藩の家老になるが、分家の小倉新田藩から藩主の弟が養子となって伊織より七代目を継ぎ貞則と名乗る。これより藩主小笠原家と連らなる血族となった。
――家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典』第七巻(新人物往来社、1989.5)
山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)に、寛永御前試合で荒木又右衛門と試合し相討ち、とある。
*8 由比張孔堂正雪(1605~1651)
幼名・久米之助。駿河国庵原郡由比の紺屋岡村家に生まれる。別に駿府宮ヶ崎説も(後者の説が有力)。
新井白石の伝聞によると、神田連雀町に小さな家を借り、二部屋を住居に、三部屋を手習いの教室にしていたという。
貧しい暮らしではあったが、旗本や大名家中の武士に軍学も講じ、弟子からは軍法の大家と尊敬を集めていたという。
1651年、家光が没し家綱が将軍職を継ぐ。同年、幕府転覆計画を企てた罪を問われ自刃。
一味の牢人57人が逮捕され、側近・丸橋忠弥ら30余人が処刑され、正雪の父母・妻・兄弟にも累は及んだ。
計画の大要は、江戸は丸橋忠弥を指揮者とし、正雪自身は駿河に赴いて久能山を襲い金銀を奪取、次いで駿府城を占拠、
その他京・大坂に派遣した同士と東西呼応して事を挙げるというものであったらしい。
――市古貞次他編『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、1998.11)
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第14巻(吉川弘文館、1993.4)
名は久米之助とも富士太郎とも弥五郎ともいう。
楠流の軍学者・楠木不伝の弟子になり、やがて神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開く。
道場は中々の評判で、一時は3,000人もの門下生を抱えたとされる。門下生の中には大名の子弟や旗本なども多く含まれていた。
宝蔵陰流の槍術家・丸橋忠弥や金井半兵衛など、実力のある部下を擁していたが、本人の実力の程は不明。
虚構性の強い実録本『慶安太平記』では武者修行をしたり森宗意軒から妖術を学んだりしたという(笑)。
これもまた胡散臭い説だが、由比正雪は江戸で武蔵流の剣士・石川主税清宣(宮本武蔵の弟子、本多因幡守政勝の家臣)について修行したという。
石川清宣は楠氏の裔を名乗り兵書を多く蔵していたという(楠木不伝と混同? 同一人物?)。
また武蔵流とは別に、手裏剣と鎖鎌を一心流・山田真竜軒(荒木又右衛門と決闘し敗死したという人物)に学び、正雪流を編んだという。
この正雪流は広島辺に伝わっているという。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』
ネットで百科(http://www.kn-concierge.com/netencyhome/)
*9 関口弥六右衛門氏心(1598~1670)
関口流(柔新心流・新心流・関口新心流とも)の柔術・居合の開祖。隠居後、柔心と号した。
祖父関口刑部少輔親永(氏広)は今川義元の妹婿で岡崎(松平)信康の外祖父にあたる。
氏心は親永の子・外記氏幸の子として三河国に生まれた。
長じて刀槍の法を良くし、さらに良師を四方に訪ねて修行をしたが、やがて組討の術に工夫を積んで柔(やわら)の一流を開き、これを柔新心流と名付けた。一般には関口流として知られる。
氏心は初め遠縁にあたる菅沼(松平)飛騨守忠隆に召し出されたが、飛騨守没後は本多甲斐守政朝に仕え、ここを去って大久保加賀守(忠職か)に客分となり、またここをも去るなど転々とした。
寛永年間このことを知った紀伊頼宣に招かれ、浪人分として合力金75両を受け、和歌山に在住した。
氏心はこの地で氏業・氏英・氏暁の三子をはじめ、門人を指導して、流儀の基礎を固めた。1670年没。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館、1987.10) * 関口氏心の項
氏心は幼少から刀・槍・組討の諸術を好み、長じてそのいずれにも精妙を得た人であるが、特に組討を武術の根幹と見定め、これを本として柔(やわら)の一流を開いた。
その時期については未だ明らかでないが、氏心が寛永8年(1631)5月に記した『柔新心流之序』が知られているので、これ以前ということになる。
「やわら」という名称が起ってきたごく初期の流儀である。
なお氏心の教えの根本は組討・捕手であったが、それと不離の関係において居相(居合)が重要な位置を占めていた。
故に、後世、関口流の居相は、それ自身、田宮流・伯耆流などと並び大きな発展を遂げた。
また関口流では柔の原理を武術全般の基礎として追究したので、氏心の門人能曾孫太夫勝行は、その理に基づいて関口流(真心流)槍術を編組し、特色ある伝統を後世に残したのである。
江戸時代における関口流の総勢力はきわめて大きかった。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第8巻(吉川弘文館、1987.10) * 関口流の項
柔術には関節技があるのでイスタスっぽくて出場させたが、ちょっと安直過ぎたかも。テンプレもあまり弄ってないし。
ただ、中距離戦闘の居合と近距離戦闘の格闘術の組み合わせはベスト・ディフェンスと言えるかもしれない。
まあ柔術主体で戦ったら剣客じゃないって言われるんだけど。
*10 水野出雲守成貞(????~1650)
幕臣旗本による傾奇者(かぶきもの≒DQN)組織である旗本奴・大小神祇組の頭目・水野十郎左衛門成之の父。
彼、成貞もまた若年の頃「かぶき者」として有名であったという。
備後福山城主水野日向守勝成の三男で、譜代でも名門の家柄。
1619年から家光に小姓として仕え、1624年従五位下出雲守、同年上総国に采地1,000石を賜わる。
翌年、加増され3,000石。致仕後は寄合となり1650年没。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第六(続群書類従完成会、1964.12)
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第13巻(吉川弘文館、1992.4) * 水野十郎左衛門の項
旗本奴・町奴などの傾奇者は、異装や反体制などDQNな側面も多かったが、仲間で盟約を交わして徒党を組むなど、侠気に溢れる組織でもあった。
まぁ、夏炉冬扇をマジでやって男伊達を競うなど馬鹿っぽいところもあるのだが……。
このコピペでのキャスティングは暴走族→DQN→傾奇者、というイメージから。
*11 浅山一伝斎重晨(????~????)
丸目主水正を祖とする居合の流儀・一伝流は、国家弥右衛門から浅山内蔵助に伝わった。この内蔵助が一伝斎(『武芸小伝』)。
剣術を主とするが、伝書には居合・小太刀・鎖鎌・薙刀・忍術・捕縛術・毒害の法まで載るという。
初代一伝は天正頃の人か。また寛永御前試合で伊庭是水軒と立ち合って負けたのは六代後の一伝斎重行か。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
上野国碓氷の郷士、初名三五郎、後に内蔵助、諱は重辰また重晨とも称した。号、一伝斎。一説にほかに一存、一徳と号す。
流祖丸目主水正の高弟・国家弥右衛門に学びその伝を得た(丸目と同郷であるから、丸目の晩年の弟子と見ることもできる)。
参考:諸田政治『上毛剣術史』下(煥乎堂、1991.6)
浅山一伝流の道統は元上州碓氷の郷士丸目主水正則吉の一伝流体術に発し、国家弥左衛門(影山真刀流)を経て、浅山一伝斎重辰(重晟?)に伝え、この一伝斎を中興の祖として諸国に広がった。
一伝斎重辰は上州碓氷の郷士とも伊賀の人ともいうが、経歴は不明。
一説に上泉秀綱に学んだとも、奥山左衛門大夫忠信(丸目蔵人門人)に学んだとも、中村泉十郎(秀綱門人)に学んだともいう。
また、近江浪人で京の吉岡家に学んで一流を建て江戸に道場を構えたというが、いずれも確証なし。伝書には田宮流と関連があるともされる。
参考:綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
浅山一伝流流祖浅山一伝斎については諸説があり、詳細は不明であるが、土佐・久留米・江戸・信州等に伝えられた伝書中の相伝者系図筆頭に見える一伝斎は重晨とある。
天正頃の人で、慶長年間に丹波国独鈷の滝で修行し浅山村不動の別当霊夢によって開眼し、流儀を弘流した。
大正元年発行の講談本『剣客浅山一伝斎』によると、一伝斎(重晨)は丹波28万石の領主・波多野秀治の一族・赤井景遠の軍学指南番・浅山玄蕃源吉忠一了斎の三子・三五郎(永禄9年、1566年生まれ)であるという。
三五郎は幼時より武術の独稽古に励み、12才のとき不動明王より夢のお告げによって剣術極意の妙術を蒙った。後にその流儀を浅山一伝流と唱えて日本廻国をした。
一伝斎重晨以降の流系は以下、小島仁左衛門光友――仲村九兵衛光利――中井茂右衛門重頼――小野里新兵衛勝之――中田七左衛門政経――浅山一伝重行と続き、初代より七代目に浅山一伝重行の名があり、この一伝重行より流派は全国に拡がった。
浅山一伝重行は江戸において浅山一伝流を指南した人で、墓は浅草新堀端清水寺にあった(大震災・戦災により消失)。
重晨の浅山一伝流は、はじめは剣・柔・居合・棒・捕手・鎌・小太刀・捕縄・半棒を含む総合武術であったが、時代が下るにつれ、それぞれの術が分化して伝播し、各藩において専門的に教授されるようになった。
一伝斎重晨の創始した総合武術浅山一伝流とは別に、丸目主水正という人を祖とする抜刀一伝流というのがあるが、丸目の経歴はまったく不明である。
この流系より浅山一伝一存(寛永年間の人)が出て、抜刀一伝流は一伝流居相と改称され諸藩に伝播していく。尾張・福山・松江の各藩および上州に伝えたとされる。
一伝一存は、一説によると慶長15年(1610)に生まれ、貞享4年(1687)に78歳を以て没している。(※一伝一存は不伝流の伝書に浅山内蔵入道一伝一存と記される。)
寛永20年(1643)および慶安2年(1649)に、一伝一存の門下と思われる梶原源左衛門が師一伝一存の名を自筆して発行した伝書が現存する。
浅山一伝一存は主に居合術を伝えた人で、彼の伝えた居合術は居合を“居相”と表記し、伝書内容が江戸系浅山一伝重行関係のものと全く異なっている。
一伝重行は元禄4年(1691)に没しており、貞享4年(1687)に没したとされる一伝一存とほぼ同一期に生きた人であるが、二人は明らかに別人である。
寛永御前試合の一伝斎は元祖一伝斎がモデルであるが、時代年齢が合わず慶長15年(1610)生まれの一伝一存とする研究家もいるというが、一伝一存は一伝斎と称したことはない。
相手の伊庭是水軒にしても、この試合の14,5年後の慶安2年(1649)の生まれで、1682年から心形刀流を開創した人で、この試合が行われた寛永11年(9年)にはまだ生まれていない。
参考:小佐野淳『武術・浅山一伝流』(愛隆堂、1990.11)
一伝流は、捕手・居合・剣術などを主とする武術の流。
『本朝武芸小伝』には丸目主水正なる者を流祖とし、後世これに従う書も多いが、流儀の伝書により浅山一伝斎重晨を祖とすべきであろう。浅山一伝流ともいう。
重晨については詳らかでないが、同流の名手森戸金春の墓碑銘(寛政9年山本北山撰)の中に「慶長中浅山一伝なる者あり、四方に良師をもとめて得ず、遂に丹波国浅山不動に祈り剣訣を授かり一家を立て」たという意味が記してある。
森戸家は上州館林藩に仕え、元禄以来一伝流を伝えた家だけに、その所伝は参考となる。
浅山不動は兵庫県氷上郡氷上町香良にあり、天保9年(1838)郡山藩一伝流佐瀬政発門人らの献額が今も存するという。
一伝流の内容は小具足・捕手・居合・剣・鎌・棒その他に及んだ。
また一伝流には浅山一伝一存という人があり、寛永ごろに伝書を残している。ほとんど居相(居合)を主としているので、一伝流居相の祖と見るべきであろう。
一存は貞享4年(1687)正月5日没、年78と伝わる。重晨と一存との関係は未だ明らかでない。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻(吉川弘文館、1979.3) * 一伝流の項
諸説さまざまで、さっぱり人物像がつかめないが、ここは国史大辞典説を借りて慶長頃の人・浅山重晨を出場させる事にした(寛永頃生きているか自信ないけど)。
忍術とか毒とかキワモノ系で謎が多いが、ズール系のピュア・ファイターではなさそうと判断したので、普通に総合武術家とした。
出身についてはさっぱり解らないので、適当に上州にした。
*12 陳元贇(1587~1671)
江戸時代初期、明国からの帰化人。字は義都、既白山人・升庵・芝山・菊秀軒と号した。1587年(万暦15、天正15)虎林あるいは武林の出生というが、異説も聞く。
元和年間(1615〜1624)、明国の兵乱を避けて、日本に亡命。もっとも海賊対策の使節に随行してとか、短期旅行の目的でとかともいう。
長州萩、江戸に滞在したのち、寛永年間(1624〜1644)の末、名古屋藩祖徳川義直に招かれ禄60石を受けて名古屋に居住、同地の文化発展につくす。
1671年没。85歳。日本語に通じ、書・医薬・菓子に豊富な知識をもつ。
中国の製陶技術を伝え「元贇焼」を残す一方、同じく拳法をもたらし起倒流をおこす。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第9巻(吉川弘文館、1988.9)
日本の柔術は、明の陳元贇が麻布の国昌寺に寄寓している間に、同寺に寄宿していた福野七郎右衛門・磯貝次郎左衛門・三浦与次右衛門の三浪士に中国伝来の拳法を教えたのに始まる、というのが旧来の定説である(『武芸小伝』ほか)。
これについては柔道史家の間にとかくの論が多かった。彼の江戸滞在期間が不明確であったためである。(中略)
陳元贇は明の万暦15年(日本、天正15年)、浙江省に生まれた。27歳から28歳にかけて1年1ヶ月間、少林寺に入山していたという説がある。
25歳、元和7年始めて訳官として来日、上洛した。
同年の冬から毛利家の扶持を得て2,3ヵ年長門に滞在し、寛永2年(39歳)関東に下って麻布飯倉の長門屋久兵衛圭佐の草庵に寄寓。
翌年、この草庵は芝西久保に移建されて虎林山国昌寺となり、彼も同年4月上旬から同寺に移り、ここで前記三浪士および二代目住僧久円らに中国拳法を伝えた。
同4年9月、彼は寺を退去し、以後寛永15年までは尾州・京洛・防長・長崎、また江戸へと流泊した。
寛永15年ごろ、尾州藩祖敬公に招かれて仕え60石を扶持され、名古屋に住した。
また、彼が国昌寺で教えた拳法の伝統は元贇流柔術と称した。
参考:綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
明の帰化人。詩文・絵画・陶芸・医薬・茶道・学識・拳法に優れる。
この試合の寛永11年当時は、諸国を漂泊中。なので身分は浪人?
結構な大物で一回戦敗退は勿体無い。でも他所から上陸してきた武芸者は彼くらいしかいないんだよ……。
あと剣客じゃないってツッコミも勘弁してくれ。
*13 幕屋与右衛門(????~????)
戸部新十郎氏の短編「大休」(徳間文庫『秘剣 水鏡』収録)では幕屋大休が吉原の用心棒として登場しており、今回の出場はその作品と設定へのオマージュ。
「大休」では寛永の江戸の三名物「探入の絵、外郎の蹴鞠、幕屋の兵法」のひとつとして大休が数えられたが、史実では大休でなく彼の弟の与右衛門。
幕屋与右衛門は江戸で幕屋新陰流の道場を開き40余歳で江戸で没したというから、大休とするのは誤りとして間違いない。
また大休こと幕屋弥次右衛門清信は1609年誕1689年没なので、彼にしても弟の与右衛門にしても、作品世界の「大休」と年齢が合わない。
……まあ小説の内容にケチをつけるのはナンセンスだが。
「松田方新陰流を称し新陰流の正統を名乗る」というくだりがあるから、柳生十兵衛と幕屋大休の対決を描いた古の時代劇映画の影響もありそう。
以下、幕屋弥次右衛門清信(兄)、幕屋与右衛門(弟)、彼らの師匠筋にあたる松田織部について。
晩年に大休と号す。宗八郎清房の子。
清房の父は五郎右衛門清次といい、筒井順慶に滅ぼされた大和国式上郡戒重村の城主・戒重肥後守の弟、粟殿の城主・幕屋玄蕃頭の遺児であった。
五郎右衛門清次は旧臣・松田織部之助清栄から新陰流を相伝し、これを子の清房に伝えた。宗八郎清房は越前福井に移り、松平忠昌の家臣杉田五郎兵衛に仕えていた。
弥次右衛門清信はこの父に学ぶとともに、旧臣馬場正長の子・新左衛門光家が福井に来たとき新陰流の奥秘を伝授され、ついに一家を成して剣術を指南するようになった。
この流を清信は松田派新陰流と称した。
大休の嫡子清勝は病身であったため、その弟・弥次右衛門貞清が道統を継いだが、法を犯して福井を追われたので、大休の門人・横山藤八郎記章が福井における師範となった。
彼の弟・与右衛門は父に学んで奥秘を極め、江戸へ出て幕屋新陰流の道場を開くが、40余歳で江戸で没する。
寛永頃、狩野探入の絵・外郎の蹴鞠・幕屋の兵法が江戸の三名物と評判になるほど有名だった。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
松田織部は主君の戒重氏・幕屋氏が柳生の案内で筒井氏に滅ぼされたことを恨みに思い、柳生に隠田があることを信長に密訴した。
このために柳生領は没収され、石舟斎以下柳生氏は浪人した。石舟斎は織部を恨み、子らに旧領に復し織部を討つことを命じた。
やがて宗矩の代に柳生領は回復し、松田織部を捕え庄田喜左衛門がこれを斬った。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
戒重氏・幕屋氏は柳生の案内で筒井氏に滅ぼされた。
このとき、幕屋玄蕃の忠臣・馬場宗左衛門は奥方と当時2歳の主人の幼子を連れて落ち延びた。長じてこれを松田の門へ送り、兵法修行させた。
松田織部は主家再興を望むが、柳生の隠田を讒して狙われる身であることを慮り、上泉師からの伝書を菩提寺に委ね、後年幕屋の子が来たならば渡すようにと和尚に伝えた。
この松田は主家滅亡時柳生にいて、筒井で師範をしていたという。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
○松田織部助清栄
大和戒重肥後守の臣で、上泉信綱に新陰流を学んだ。
主人戒重肥後守が三好に亡された後柳生に身を寄せて居たが、戒重が亡びたのは柳生の手引きに寄つたとかで柳生を恨んだ。
其後筒井順慶に仕へて兵法師範をして居たが、順慶の卒後羽柴秀長が大和の国主になつて来た時、柳生に隠田があるのを訴へて宗厳は領地を没収せられた上に蟄居を命ぜられた。
慶長5年関ヶ原戦後柳生は旧領地柳生庄を復してから、松田は捕へられて庄田喜左衛門に斬られた。
○幕屋五郎右衛門清次
父は戒重肥後守の弟幕屋玄蕃頭。松田織部助に新陰流を学んだ。
○幕屋宗八郎清方
父清次に学んで、後越前忠直の老臣松田五郎兵衛に仕へた。
○幕屋弥次右衛門清信
清方に学んだ。又父の跡を相続し、後子清勝に譲つて隠居し、名を大休と改めた。
清勝は病身で、弟の貞清が准養子になつたが法を犯して大和に帰つた。
――堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
松田派新陰流は上泉伊勢守の大和での弟子・松田織部之助清栄を祖とする。
織部は大和国式上郡戒重村城主戒重肥後守、及び同じく粟殿城主幕屋玄蕃頭の家来。
戒重家の没落後一時柳生に身を寄せるが、のち筒井順慶に仕え、順慶没後大和の領主となった羽柴秀長に柳生を讒言したため、のちに柳生家の者に斬殺される。
松田派中興は孫・宗八郎の長男幕屋弥次右衛門大休。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
山田次郎吉『日本剣道史』では訴えた相手を一貫として信長としているが、以下の新井白石『藩翰譜』の記述を読む限り羽柴秀長が正しいようだ。
「織田殿の時、宗厳大和の守護筒井入道順慶に属して、所々の功名ありき、
関白秀吉、天下を知召して、当国を悉く御弟秀長大納言に参ぜられしに、
柳生の譜代の郎等、松田という者告申せし旨ありて、柳生の庄隠田の科に処せられて、累代の所領没収せらる、
宗厳口をしき事に思い、三人の息に如何にもして汝等本領を安堵し、松田が首切て我にたむけよといひしが、
宗矩再び此地領する事を得て、松田を搦取て、荘田といひし郎等して首刎ねしむとなり」(『藩翰譜』第六、「柳生氏」)
短編「大休」もそうだが、柳生とは因縁のある間柄。一回戦で宗矩とぶつかるのは、その辺の因縁も考慮に入れた上でのこと。
*14 伊藤一刀斎景久(1560~1653)
永禄3年(1560)伊豆に生まれ幼名を弥五郎と云ひしといふ。
鐘捲自斎に従て中條流の小太刀及び自斎の発明せる中太刀を習ひ其精妙を極め、後諸国武者修行して諸流を究め又名ある人と勝負すること三十三度未だ嘗て敗を取らざりしと云ふ。
かくて真剣勝負に於て勝を得たる刀法と諸流の長を採りて自ら工夫発明するところあり、遂に自己の一流を作れり、これ即一刀流なり。
従て中條流の如く単に小太刀のみを遣ふにあらず、鐘捲流の如く中太刀のみを主とするにあらず、小太刀・中太刀・大太刀の区別なく種々の太刀を用ゐて教法を立てたり(後略)
――下川潮『剣道の発達』(大日本武徳会本部、1925.7/第一書房、1984.3復刻)
一刀斎は伊藤入道景親の後裔で弥左衛門友家の子として1550年伊豆大島に生まれ、幼名を前原弥五郎と称した。
大島を去り海を渡り伊豆に上陸し、14歳で武芸者・富田一放を倒し名をあげた。
――笹森順造『一刀流極意』(一刀流極意刊行会、1965.11)
鐘巻自斎通宗から学んだ中条流に独自の工夫を加え、一刀流を編む。
門人は古藤田俊直(小田原北条氏の臣という)と小野忠明が傑出した。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第1巻(吉川弘文館、1979.3) * 一刀流の項
伊豆伊東生まれで誕地を姓にしたとも、姓は伊藤で誕地も伊豆大島であるともいう。
前者の説では山に入り修行し、後者の説では海を板子一枚にすがって三島に泳ぎ着いたという。
また『一刀流伝書』では西国の生まれ、古藤田伝書では近江堅田の生まれという。加賀金沢・越前敦賀説もある。
生年は天文19年(1550)説と永禄3年(1560)説があり、承応2年(1653)享年94歳説が後者の説を裏付けている。
終焉地は下総小金原説と丹波篠山説とがある。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
塚原卜伝・上泉伊勢守と並び剣聖と称される剣の達人。
中条流(外他流)の鐘巻自斎に師事し、一刀流を創始する。
(堀正平『大日本剣道史』によると、一刀斎は一刀流を称さず外他流を称したという。)
剣名が世に轟き徳川家康に招かれるが固辞し、交渉の末に継承者を推挙することで落ち着いた。
このとき彼のもとには善鬼と神子上典膳吉明の二人の弟子があった。
結果として徳川家に仕えるのは神子上典膳(のちの小野次郎右衛門忠明)だが、継承者を決める際に典膳は下総小金原で兄弟子の善鬼を斬っている。
この辺の経緯は『武芸小伝』によると以下の通り。
善鬼は長く一刀斎に付き従っていたが、なぜか一刀斎はこれを殺害しようと願っていた。
あるとき一刀斎は密かに典膳を呼び、「其の方の手によって善鬼を殺害せよ。しかし現在の技倆を以ってしては彼の術には及ばぬ。よってこの刀法を授ける」と“夢想剣”の術を伝えた。
その上で彼は下総小金原に善鬼・典膳の両人を呼び寄せ、勝を得た者に瓶割刀(※一刀斎が諸国修行中、三十三度の真剣試合で用いた不敗の剣。一刀流の象徴)を授ける旨を言い渡した。
両人は勇躍して真剣で戦ったが、善鬼はかなわず斬殺された。
一刀斎は典膳を大いに賞して瓶割刀を与え、自分は剣術をやめて仏道に入ることを伝え、そのまま別れ行方を絶った。
(武道書刊行会編『新編 武術叢書』人物往来社、1968.5)
これは、純粋に剣の腕で継承者を決しようとしたとする説と、あらかじめ継承者は典膳とされていたのを善鬼が不服としたという説がある。
善鬼は身分が船頭(諸説あり)で粗野な人物であったため、一刀斎は徳川家に仕官させるには不適と判断したのではないか。
(ちなみに善鬼は小野姓で、兄弟子を斬った典膳が善鬼の菩提を弔うため小野姓を継いだという説もあるが、信ずるに足らない。徳川家に仕えた小野忠明は小野善鬼であるという珍説も同様。
しかし小野忠明は性格に問題があり何度も罰せられているから、その辺りから忠明=善鬼説が発生したのだとは思う)
謎の長生き老人。
*15 宝蔵院胤舜(1589~1648)
江戸時代前期の槍術家。天正17年(1589)宝蔵院胤栄の甥中御門永加の次男として生まれ、親戚満田氏の養子となった。
やがて興福寺の子院宝蔵院に入り、宗となって禅栄と称し、のちに胤栄のあとを継ぎ同院の院主となり、僧位は権律師に至った。
『本朝武芸小伝』七によれば、胤栄なきあとその遺志により一時寺中で槍術が廃絶したらしいが、胤舜はその伝統継承を決意し、胤栄の直弟子奥蔵院某について学び、その極に至ったという。
胤舜はさらに工夫を積み、新たに手数を増補したり、伝授文書を整備したりして宝蔵院流の完成に尽くし、ほぼその目的を達成した。
なお胤舜については、寛永6年(1648)8月将軍の上覧に浴したとか、正保3年(1646)正月鎌槍の術を台覧に供したとかいう寺伝があったが、今日その確証は見あたらない。
慶安元年(1648)正月12日寂。年60。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第12巻(吉川弘文館、1991.6)
以下、宝蔵院流について。
当時は槍術の流儀といえば、まだ素槍中心の時代であり、香取新当流も同様であったが、胤栄はそのころ将士の間に得道具として勃興しつつあった十文字槍の利に注目し、この種類を流儀の槍と定めたのであろう。
完成期におけるその槍の寸法は、全長9尺から1丈(約2.7〜3b)ほど、穂の長さは剣が6,7寸(約18〜21a)、横刃(両鎌)が4,5寸(約12〜15a)ほど、そして4,5寸ほどの尖った石突を持つもので、これを流儀では十文字鎌と称した。
十文字鎌の武器としての特色は、素槍の単純素朴さに比して攻防変化の多いことである。穂に鎌がついているために、穂先で突く以外に、押しても引いても鎌で切ることができる。
また鎌を楯として構えることができ、相手の槍を掛け落としたり巻き落したりもしやすく、それを利して相手の手元に入り込みやすい。したがって素槍より柄を短くでき、取り回しにもよい。
宝蔵院流はこれらの長所を活用する槍術であって、流儀では鎌術といった。
宝蔵院では胤舜以後も歴代院主によって流儀が保持されるようになり、江戸時代を通じて宝蔵院流の正統として重きをなした。
また院主は鎌宝蔵院を名乗り、院主や免許の門人僧は他出の際に槍を持たせる風も起り、四世胤風以後はそれが公認され、同じく胤風以後は代々江戸幕府将軍への御目見得や鎌術上覧の栄を得るなど、僧侶として破格の存在となった。
このことが流儀の家元としての院主の位置をいよいよ重からしめた。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第12巻(吉川弘文館、1991.6) * 宝蔵院流の項
胤栄考案の「突けば槍、薙げば長刀、引けば鎌」という十文字鎌槍を使いこなす、当代随一の槍術家。
*16 宮本武蔵玄信(1584~1645)
はじめ新免氏。名を政名、玄信。播磨(一説、美作)生まれ。
十手の術を究め、当理流兵法を唱えた武人・新免(宮本)無二斎(平田武仁)の子。一説に無二斎の養子。養子に造酒之助・伊織。
早くから父に学び、1596年新当流有馬喜兵衛に勝って以来諸国を巡り、1612年豊前小倉藩主細川忠興の師範・佐々木小次郎巌流を破る。
1634年、小倉藩主小笠原忠真の客分となって島原の乱に出陣。
1640年、肥後熊本藩主細川忠利に招かれ同地で門人を育てる傍ら、兵法論書を著し、連歌・茶湯などにも親しむ。
書画・木彫・金工・造園など諸芸に優れ、特に水墨画を得意とした。
なお、『五輪書』は自著とするには疑問の点が多く、高弟のまとめたものかという説がある。
『五輪書』によると、「13歳から28,9歳まで各地で60余度の他流試合を行い、一度も利を失わなかった」「30歳を越えて過去における自己の兵法への厳しい反省が生じ、さらに深い道理を求めて鍛錬を重ね真の道を体得したのは50歳頃」という。
――市古貞次他編『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、1998.11)
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第13巻(吉川弘文館、1992.4)
言わずと知れた、最強を謳われる伝説の剣豪。
しかし長期間にわたり浪人していたため、実像には不明な点が多い。生誕地も播磨だったり美作だったり。
「武蔵の人と為りは頗る機知に富んで、巧に人心を収攬する才があった。故に江戸の如き武芸者の淵藪には印象を残さないで、田舎周りを旨として、土地に聞こえても大抵手心の知れた者と試合して歩いた」
……と武蔵非名人説を唱えたのは山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)。
この主張を大幅に取り入れ、「江戸で道場を構えていた高名な剣法家に挑んだ形跡がないため、武蔵は名人ではない」と強調したのが作家・直木三十五。
1634年の頃は養子の伊織に従い豊前国小倉藩(藩主:小笠原忠真)に寄寓している。
将軍家兵法指南役になるという大望があったというのが時代小説界では半ば定説化している。
そのため柳生家への対抗心は並々でないとか……。一回戦柳生権右衛門、三回戦柳生友矩……w
でも正直、準決勝で伊藤一刀斎に勝てるかというと……(汗
*17 松山主水大吉(????~1635)
念流を源とするという流儀、二階堂流の継承者。
細川家に仕えるが、同藩の荘林十兵衛に暗殺される。
同流は同藩士村上吉之丞正之が継ぐが一代で絶えた(子の平内正雄は武蔵の門に学び村上派二天一流を開く)。
主水大吉の門人は他、伊丹角助と細川忠利。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
鎌倉幕府の評定衆であった二階堂出羽守行村の子孫が伝えたとされる二階堂流(中条流系)の剣士。
二階堂家は行村以来四代の間、岐阜の稲葉城主であったので、西美濃18将の一人だった松山刑部正定の一族、松山主水(大吉の祖父)がこの伝を得、今まで学んできた上方系の源流剣術を参照して、新しい二階堂流平法を開創した。
この主水は竹中半兵衛の母方の従弟で、竹中の旗本として軍功があり、半兵衛没後は木村常陸介に仕えるが浪人、のち加藤清正に仕えるが再び浪人し鎌倉へ隠棲した。
主水の子・主膳の二男が大吉で、祖父の技を全て相伝し、主水の名を継いで江戸へ出た。
やがて1632年、新しく肥後藩主になった細川忠利に200石で召抱えられる(旧加藤家中の荘林十兵衛が三斎忠興に召出されるのもこの頃)。
忠利は元来柳生宗矩の門人であったが、密かに松山主水大吉に剣を学んでよりは、但馬守が不思議に思うほど上達したという。
二階堂流平法の教則は、初伝を一文字、中伝を八文字、奥伝を十文字といい、三段になっていた。それで一・八・十の字画によった平の字を用いて平法(平兵法)という。
また主水大吉は二階堂流平法とは別に、心の一方という妙法を身につけていた。
心の一方とは「すくみの術」ともいい、一種の瞬間催眠術で、相手を不動金縛りにして動けなくしたり、相手を掛け声一つでひっくり返したりする技という。
忠利侯が式日に江戸に登城するときなど、主水大吉が行列の先に立って進むと、いくら混雑している時でも交通整理の黒鍬組の者に静止されることがなかったという。そのため、彼と忠利は諸大名の話題となった。
やがて忠利の肥後入部に随い熊本に入り1,000石を賜い、道場を構え藩士を養成した。
忠利と忠興は不仲で、主水大吉はたびたび忠興の士を痛めつけたという。
そのため忠興は主水暗殺の密命を出すが、忠利はそれを察知し主水を人知れぬ場所に隠す。
しかし主水は松枝村光円寺で病臥中に荘林十兵衛に暗殺される(十兵衛はその場で主水の小姓に斬られる)。
主水の血縁はこれで絶えたが、光円寺では弟子僧に松山姓を名乗らせ名跡を継がせたという。
二階堂流平法は一文字・八文字の伝までは細川忠利と村上吉之丞に伝わったが、奥伝の十文字は彼の代で絶えたという。
――綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
上記の細川忠興の家臣との争いは『撃剣叢談』記載のもの(二階堂氏の出自は山田次郎吉『日本剣道史』記載のもの)。
『撃剣叢談』によると、主水死後、十文字の伝を得た者が熊本藩内になかったので、藩主細川忠利は遍くその伝を知る者を求めた。
やがて比叡山の僧にその伝を得たという者が見つかり、これを召して訊ねたところ僧は「その理は高上だが、勝負に用を為す太刀はない」と答えたという。
また日夏繁高『本朝武芸小伝』によると、主水死後、村上吉之丞に及ぶ者はなく、門下に入るものが多かったという。
その頃、九州に流を広めようと宮本武蔵が遍歴しているという噂があった。吉之丞がこの噂を聞きつけ武蔵に挑んだところ、武蔵は及ばずと思い他国へ去ったという。
参考:武道書刊行会編『新編 武術叢書』(人物往来社、1968.5)
祖父の技を継ぎ大成させ、二階堂流平法(兵法ではない)を創始した。肥後熊本藩・細川忠利に仕える。
「平法」の所以は一文字・八文字・十文字の型で「平」の文字が構成されることから。
主水自身は二階堂流平法以外に「心の一方」という瞬間催眠術を心得ており、病中に暗殺されるまで無敗を誇った。
一説に宮本武蔵にも勝った(あるいは武蔵の方が立会いを避けた)という。
「御存知二階堂流」などと書いたが、かなりのイロモノ・キワモノ。
*18 柳生権右衛門厳倚(????~????)
柳生石舟斎の嫡男・新次郎厳勝の三男で、兵庫助利厳の弟。仙台柳生の祖で、伊達政宗に仕える。
「厳倚(よしより?)」の諱は渡辺一郎・島田貞一「武術系図」(児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修『日本史総覧』補巻 中世三・近世三、新人物往来社、1984.11)から。
ただし同書によると元和2年(1616)に死去?という。
「仙台藩家臣に、菅原姓で、柳生権右衛門厳勝の次男新次郎厳重に始まる柳生家がある。平士百石。
厳勝は元和二年の伊達政宗の代に召し出されて六百石を与えられ郡司を務め、のち七百石。
厳重は寛永十九年の政宗の代に無禄で小姓を務めた。(後略)」
という記述が『宮城県姓氏家系大辞典』(角川書店、1994.7)に見られる。
しかし、寛永19年には政宗はすでに死んでいるし、厳勝という諱も怪しい(父親の諱を継ぐ例は皆無ではないが……)。
ひょっとすると「新次郎厳勝の子・権右衛門厳重」がごっちゃになったのかもしれないが、厳勝は伊達家と特に縁がなかった気がするので記述の信憑性は薄いまま。
また柳生家の記録『玉栄拾遺』によると、子孫はあるが姓名未詳。
兄柳生利厳が加藤清正の家臣となった1603年に、権右衛門もまた伊達政宗の家臣となったという。
1635年の江戸城での猿楽興行に主君政宗と同席、伊達家士らと踊五番を為したという。
参考:今村嘉雄編『改定 史料柳生新陰流』上巻(新人物往来社、1995.4)
血筋は悪くないのだが、どうにも地味で知名度が低い。
ちなみに「新陰流の本場は仙台」は嘘です。どう考えても無理です。
狭川助直が狭川新陰流で伊達家に仕えたりもしますが。
*19 田宮坊太郎(1626~1645)
山田次郎吉が『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)内に収めた記事(口碑及び諸記録をもとに作成)によると、田宮坊太郎の履歴は以下の通り。
紀州新宮城主・四ノ宮隼人正は故あって主君の譴責を蒙り、領地・士籍を没収され町人に下った。和泉国堺湯屋町に呉服屋を開き和泉屋与兵衛と名乗る。
彼の次男・源八郎は士籍に志があり、讃岐国丸亀城下の養源寺顕誉上人と丸亀藩生駒氏の臣・土屋甚五右衛門を頼り走卒となり、田宮姓を称する。
その頃、藩内に堀源太左衛門という者が武芸で生駒家に仕えていた。源八郎は彼の門弟・大谷伝右衛門と試合して勝ち、名をあげた。
寛永2年、讃岐国に地震が起き、阿野国府八幡宮が破損したので再建することになった。
翌寛永3年3月18日の遷宮の式の日、源八郎ら従卒がが式場で憩っていると、堀源太左衛門が馬を馳せて来て彼らに狼藉を働いた。
源八郎が源太左衛門を抑止しようとしたところ、源太左衛門は怒って刀を抜いたので、双方戦うこととなった。
勝負はほぼ互角であったが、源八郎が敵刃を避けようとして躓き倒れたところを源太左衛門は逃さず撃ち、勝を得た。
当時、源八郎の妻は身籠っていたが、5月11日に分娩した。すなわち彼が田宮坊太郎である。
7歳の時、先の土屋甚五右衛門は彼を携えて江戸に至り、柳生但馬守宗矩の木挽町の邸に坊太郎を托す。
宗矩は坊太郎を憐れみ武技を薫陶すること十余年、彼は17歳で讃岐へ帰国した。
彼の帰国に先立ち柳生家は公儀に仇討を申請し、生駒家にも通達した。
仇敵・掘源太左衛門は時に67歳、白髪の老人で、二間余の槍を携え坊太郎に相対した。
この時、坊太郎は水戸黄門家で元服し小太郎国宗と名付けられていた。
主客の地位は定まり勝敗の帰趨は明らかで、源太左衛門は数合を経て坊太郎に両断されて死んだ。
みな彼を賞し、柳生家は江戸に誘致するが、坊太郎は母の看病を理由にこれを辞し、讃岐に留まった。
のち養源寺で出家し空仁と法名し、寛永20年3月江戸に出て谷中に小庵を結んで祖先の菩提を弔ったという。
生没年未詳。江戸時代の孝子。
フィクションが多く履歴も分からないが、寛永年間(1624〜1644)の初期、丸亀に起きた仇討の主人公となっている。浄瑠璃『花の上野誉れの石碑』で有名になった。
坊太郎の父田宮源八は人望高く文武両道の人格者で、生駒藩の剣道指南役。
彼をねたんだ同じ丸亀藩の剣道指南役・森口源太右衛門は、丸亀の北山八幡宮新築の時、警固での雑踏にまぎれ、坊太郎の父源八をだまし討ちにした。時に坊太郎の母は妊娠中であった。
坊太郎は生後父の最期を知り、江戸の柳生門下で腕を磨き、1642年(寛永19)春、全国を捜した末に父の仇を討った。坊太郎はこの時わずか17歳であった。
その後、坊太郎は孝子の手本として全国で有名になり、わが国の仇討ち物語のひとつとして名をあげた。
26歳で亡くなった坊太郎の墓あるいは記念塔は、丸亀市南条町の玄要寺境内にあり、乳母が苦心して仇討ちを祈願した「お辻の桃園」は、大川郡志度町の志度寺境内にある。
――四国新聞社出版委員会編『香川県大百科事典』(四国新聞社、1984.4)
四国新聞社出版委員会編『香川県人物・人名事典』(四国新聞社、1985.6)
幕末の安政5年(1858)刊の『西讃府志』(讃岐国の地誌)は彼の事績を以下のごとくに記す。
寛永3年(1626)讃岐丸亀藩士・堀源太左衛門に父源八郎を殺された田宮坊太郎は、幼時より復讐の念を燃やし、金毘羅大権現に祈願し、やがて江戸に出て柳生飛騨守宗冬に剣術を学ぶ。
やがて寛永19年、敵討の許可を得て丸亀に戻り、同地八幡社境内で仇を討ち積年の恨みを晴らした、と。
しかし、事件の人物たちが当時の藩記録に現れないため、『西讃府志』はこの仇討の実在を疑問視している。
おそらく、江戸中期以降の金毘羅信仰隆盛の機運の中で、講釈師などの手によって作り出されたものであろう。
近世仇討百四例を掲げた『敵討』(平出鏗二郎)もこれを史実と認めず、芝居や講談等の創作として省いている。
また、この『西讃府志』の記事は多くを以下の講談に負っているらしい。
讃岐丸亀城下塩屋村百姓の娘つじ(実は高知城主妾腹)を娶った当藩田宮流剣士田宮源八郎は、恋敵の御指南役無念流堀源太左衛門に殺された。
その不幸の当日坊太郎は誕生した。7歳のとき菩提寺玄要寺に預けられる。
しかし父の最期を聞いた坊太郎は、寺を抜け出てひとり江戸に下り、柳生飛騨守の道場に入門。
精進して父十八回忌の寛永18年に、郷里国府八幡境内で、将軍および副将軍水戸公名代、藩主、柳生飛騨守らに見守られ、みごとに仇を討つ。
その後母とともに金毘羅大権現に参り、加護を謝し、仇討に使用した貞宗の名刀を奉納する(講談全集『田宮坊太郎』)。
また実説と称して伝えるところによると、坊太郎(小太郎とも)は若くして病没したともいい、また上野山内観成院で自刃したともいう。
父親が謀殺されたとき、坊太郎は臨月の母の胎内にあった。彼は変を聞いて受けた衝撃によって生み落とされたのである。
このように、復讐を宿命付けられたかのごとき出生をした幼い坊太郎のけなげな生き方が江戸人の同情と共感を呼び、歌舞伎、浄瑠璃、講談などに数多く脚色された。
「軍談鏡」などの講談の番付にもこの伝説は上位に位置しており、人気の高かったことがわかる。
宝暦3年(1753)初演の歌舞伎「幼稚子敵討」(並木正三作)は田宮坊太郎伝説を取り入れた歌舞伎の嚆矢であるが、先行作の歌舞伎「けいせい名草郡」他の筋や趣向に影響を受けており、民谷新左衛門(田宮源八に相当)の妻と二人の子が敵討ちに出発すること、妻が返り討ちにあうことなど実録とは大きく異なった筋をもつ。
これが浄瑠璃に改作され「敵討稚物語」(近松半二・竹本三郎兵衛)となり、さらに書き替えられて天明8年(1788)の浄瑠璃「花上野誉の石碑」(司馬芝叟・筒井半平)となった。
「誉の石碑」では、坊太郎を民谷源八と遊女との間の生まれとする。しかし謀られて母は廓に戻り、父は源太左衛門に闇討される。
おじの丸亀藩士槌谷内記は、将来の仇討に備えて幼い坊太郎を志度寺に預け、敵から身を守らせるため、にせの唖に仕立てる。
それとは知らぬ乳母お辻は、その業病から坊太郎を救おうと、穀断ちして金毘羅大権現に祈願を繰り返し、満願の日に自害してわが身を権現に捧げる。
一方、内記は浪人源太左衛門を敵とにらみ、当地につなぎ止めるため、彼を主君に推挙し、恒例の剣術試合にはあえて負ける。乳母お辻の悲願は大権現に通じ、坊太郎の剣は俄かに上達、仇討を期待させる。
坊太郎に対する乳母お辻の献身と内記の深慮とを含む「志度寺」の場面はとくに人口に膾炙した。そのため香川県志度寺にもお辻が水ごりをとったという「お辻の井戸」が出現した。
その後いずれも坊太郎を扱って、文化9年(1882)歌舞伎「菖蒲太刀利生鑑」、嘉永5年(1852)同「金毘羅利生稚讐」、安政2年(1855)同「花上野名誉石碑」などが現れた。
なお、講談では22歳にして病死した坊太郎の墓が江戸上野青竜院にあるとするが、今は同地寒松院に移されており、また丸亀玄要寺にも五輪塔がたつ。
とくに後者はながく土地の少年たちの道徳の涵養に役立ってきた。
参考:大隅和雄他編『日本架空伝承人名事典』(平凡社、1986.9) * 2000.8 増補版発行
乾克己他編『日本伝奇伝説大事典』(角川書店、1986.10)
志村有弘・諏訪春雄編『日本説話伝説大辞典』(勉誠出版、2000.6)
小太郎とも。
寛永19年に讃岐国丸亀において、未生以前の父の敵堀源太左衛門を討ち取ったとされる人物。
ただしすべて架空のこととされている。
【生没】寛永3年〜正保2年(1626〜45)
【伝説・歴史】最も古い年記をもち、広範囲に流布したとされる実録『金毘羅大権現加護物語』(1749年、岡本一楽子序)によるとこの伝説は以下の通り。
讃岐丸亀藩の足軽田宮源八は寛永3年、家中の剣術指南堀源太左衛門に殺害される。
源八の死後生まれた坊太郎は父源八の一周忌の日に、父の菩提寺である養源寺で絶命し、和尚の手により蘇生する。
5歳になり坊太郎は養源寺に預けられ、江戸の剣術の名人柳生但馬守宗矩の噂を聞き江戸へ向かい、但馬守をたずねる。
坊太郎は但馬守や、但馬守と親交のあった徳川光圀にそだてられる。13歳になり元服し、田宮小太郎圀宗と名乗る。
寛永19年、小太郎は17歳になり、柳生流の印加をもらい、将軍徳川家光から敵討ちの許可を得る。
丸亀へ帰った小太郎は、父の十七回忌の日、父の討たれた国府八幡宮境内で源太左衛門を討つ。
敵討ちの後、小太郎は病気の母の看病に専念し、母の死後は剃髪し空仁と名乗り、弘法大師ゆかりの地である屏風浦に庵を結ぶが、徳川光圀の強い要請で江戸に移る。
上野東叡山の北側に居住していたが、正保2年3月3日に世を去った。小太郎の住んでいた庵の跡には塚が立てられ、敵討ちを志す者のより所となった。
――志村有弘・諏訪春雄編『日本説話伝説大辞典』(勉誠出版、2000.6)
山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)によると、没年は正保2年(1645)で、年33(数え年)という。また天和3年(1683)の没であるとも、享年21歳、34歳ともいう。
これとは別に『宇茂礼木の花』で確認したところ没年は正徳2年(1712)だったが、これは正保の誤りだろう。
1645年没・享年33(数え年)とすると生年は1613年となり、この試合の寛永11年(1634)には21歳になる。
しかし寛永3年(1626)生まれ、17歳で仇討、21歳で没、とするのが半ば定説(斎藤月岑『武江年表』ほか)とされているので、今回はこれにしたがった。
まあ(墓はあるけど)架空の人間なんで生没年とかどーでもいいんですが。
もちろん居合の田宮家とは関係ありません(田宮流居合の若き使い手とする講談などもあったようだが)。
独自に旧丸亀藩京極家編『西讃府志』(藤田書店、1929.11)を読んでみた。
それによると田宮源八郎は紀州浪人四宮采女の子、堀源太左衛門に無礼討ちにされたのは寛永2年3月、坊太郎が生まれたのは同年8月、寛永19年3月に源太左衛門を討つ、となっている。
その後彼は僧となり江戸に行き、東叡山北辺に庵を編み、正保2年3月22歳で死す、とある。
復讐に燃え、とか、金毘羅権現に祈願し、といった文言は見られない。
諸書に柳生飛騨守宗冬に師事するとあるが、彼の飛騨守叙任は四代将軍家綱の明暦3年(1657)。
また、実力の上で考えても、宗冬より宗矩の方が断然相応しい。『明良洪範』六に、品川御殿で柳生宗矩と宗冬が将軍家光の前で試合した話が載っている(有名な宗矩vs諏訪文九郎も同日)。
この時、宗冬は宗矩相手にまったく勝つことが出来なかった。未熟な宗冬は「寸の長い木刀なら勝てるのに」と失言してしまう。
そこで宗冬に長木太刀を持たせあらためて試合させたところ、父宗矩は「せがれ推参也」と一喝し、強打し彼を気絶させてしまった。
「寸の長い太刀なら勝てる、などと言うことは柳生家に生まれた者の本意ではない」という話。
何年の話というのは明記されていないが、大猷院殿御実紀巻42寛永16年11月の項に『二日品川へならせられ。柳生但馬守宗矩が別業にて。御膳奉り御剣法を試たまふ。』とある。
即断は出来ないが、寛永10年頃に田宮坊太郎が江戸の柳生藩邸を訪ねたとして、宗冬は6年を経てこの体たらくだったのである。
もっと控え目に解釈して、この父子の試合を初めて宗冬が家光に拝謁した寛永10年の出来事にしても、やはり同じことである。
彼の初戦の対戦相手が十兵衛であるのは、柳生宗矩の仕組んだ消化試合、謂わば予定調和であることを表す。幼い坊太郎はそのことを知らない。
宗矩は生まれながらに仇討の宿命を背負った彼に真剣勝負の経験を積ませるため、敢えて(若年であることを厭わず)御前試合に出場させた。
かといって庇護している手前、大怪我でもされては困るので、息子の十兵衛に稽古をつけさせるという形で対戦カードを用意した。
……などと書くといい話っぽいですが、ぶっちゃけ山田風太郎『魔界転生』の天草四郎除く転生六人衆を完成させたかっただけですwwwサーセンwwwww
*20 山田浮月斎勝興(????~????)
五味康祐『柳生武芸帳』で有名な浮月斎だが、実在の剣客。新陰流疋田豊五郎景兼の門人で、一説には疋田陰流を唱えたのは彼からという。
また、この流系では、必ず愛洲移香を元祖とする。
山田浮月斎が肥前唐津藩寺沢家に仕えていたという事実はなく、寺沢家に仕えていたのは相弟子の中江新八郎。
中江新八郎は中江流抜刀術の創始者で、寺沢志摩守広高に仕え、その子兵庫頭堅高に武芸を教導した。
請われて寺沢家二代に仕えたが、1638年の島原一揆の責で寺沢家が断絶する頃、高齢の故もあって唐津を去ったという。
また、広高の甥の寺沢半平も疋田陰流一門であるというが、二代堅高の代になって間も無く唐津を去り、安芸国浅野家の兵法指南となった。
参考:黒木俊弘『肥前武道物語』(佐賀新聞社、1976.10)
綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
疋田伝兵衛景吉(宗保斎勝重)のあと、山田浮月斎勝興(肥前唐津)が疋田陰流三世を継ぐ。
参考:渡辺一郎・島田貞一「武術系図」(児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修『日本史総覧』補巻 中世三・近世三、新人物往来社、1984.11)
以下、疋田陰流について。
疋田豊五郎景兼は、上泉信綱の初期の高弟である。
奥儀を得てのち信綱の元を離れ、諸国修業に出、独自に兵法の経験を積み、諸流の長を採り、工夫を重ね、これを師伝の新影流に加えて一派を立てた。
彼が自己の流名を正式に何と書いたか未詳であるが、初期の門人らの伝書には、いずれも「新陰の流」または「新陰流」と書かれていて、信綱当時の「新影流」という書き方が襲用されていない。
そこには、当時、有力となった柳生新陰流の影響があったのかもしれない。なお、景兼の流儀は一般には新陰疋田流・疋田陰流・疋田流などと呼ばれた。
景兼の没年は明らかでない。慶長10年(1605)大坂城内死亡説が比較的広く信じられているが、同12年4月に門人坂井茂家に印加を与えているから、没年はそれ以後であることに相違ない。
参考:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第11巻(吉川弘文館、1990.9) * 疋田流の項
山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
『柳生武芸帳』では柳生宗矩の宿敵として描写され、宗矩の片足を斬る活躍をした。
大物のライバルという位置付けで出場させたが、本部以蔵さんとは不似合いだっただろうか……。
何処の人というのはデータ不足で分からないが、諸書に肥前唐津とあるから、たぶん九州辺の人であろうと思う。
*21 夢想権之助勝吉(????~????)
或人曰はく、宮本武蔵播州に在りし時、夢想権之助と云ふ兵法遣、尋ね来りて仕相をのぞむ。
宮本折節楊弓細工して居たり。
権之助は、兵法天下一夢想権之助とせなかにかき付けたる羽織を着、大太刀を携ふ。
武蔵楊弓のをれを以て立ち合ひて、権之助を働かせずとなり。
――『本朝武芸小伝』(武道書刊行会編『新編 武術叢書』、人物往来社、1968.5)
神道流を桜井大隈守吉勝に学んだ。
宮本武蔵に敗れ発奮、筑前の宝満山に登って神託を得て、4尺2寸1分(約127a)、径8分(約2.4a)の杖の用法を発明した。
筑前の黒田家に仕え、同藩に伝統。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
神道夢想流杖術は、飯篠長威斎家直を流祖とする天真正伝香取神道流の道統七代に当たる夢想権之助勝吉によって創始されたものである。
夢想権之助は神道流の奥儀を究め、さらに鹿島神流の「一の太刀」の極意も授かったと伝えられる。
慶長の頃(1596〜1615)江戸に出て著名な剣客と数多くの試合をし、一度も敗れたことがなかったが、ある時宮本武蔵との試合で極意の十字留にかかり、進むことも引くこともできずに敗れた。
それ以来、夢想権之助は艱難辛苦の修行に専念したが、天武天皇の御代より修験者の修法場として栄えた筑前宝満山の宝満菩薩に祈願参籠、満願の夜、夢の中に神童が現れて「丸木をもって水月を知れ」というご神託を伝えた。
権之助はこれをもとにさらに工夫を重ね、ついに宮本武蔵の十字留を破ったと口承されている。
その後、夢想権之助は創始した棒術をもって筑前福岡藩に召抱えられたとされるが、氏素性、生没年、身分、禄高等明らかではない。
夢想権之助の師は、常陸国真壁城主真壁暗夜軒の家臣桜井大隈守吉勝であることから類推すると、夢想権之助の生存年代は、天正年間(1573〜92)から慶長年間と考えられる。
文献的には、「二天記」「更埴人名辞書」「海上物語」等にもその名を見出すことができるが、「黒田三藩分限帳」その他の黒田藩の記録にはその名を見出だすことができない。
綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』他に「本姓は平野、通称は権兵衛、木曽義仲の臣木曽冠者大夫房覚明の後裔」とあるのは吉川英治『宮本武蔵』の記述を元としており、論拠・傍証のないフィクションである。
また、佐江衆一『捨剣』の「通称権助、北相馬郡藤代町平野(村)の出身」も同様にフィクション。
仮に先祖に姓を持つ者がいれば、かならず姓を名乗るはずである。
姓を持たぬ者に直接家伝の武術を教えるわけがなく、教えるということがあり得るとしたら、権之助が桜井家の下僕であったという事につきると考える。
参考:松井健二編著、乙藤市蔵監修『天真正伝神道夢想流杖術』(壮神社、1994.10)
*22 樋口十郎兵衛定勝(1577~1655)
上州多胡郡馬庭村の郷士。馬庭念流の祖・又七郎定次は8世念流継承者で、定勝は11世念流。
又七郎定次は念流を代々伝える樋口家に生まれるが、父の代から樋口家は神道流に転じてしまう。
定次は漂泊の念流剣士・友松偽庵氏宗から学び、念流の正法伝を得て父祖の念流に復帰、樋口念流・馬庭念流を唱えた。念流中興の祖。
某年、天流の村上権左衛門と決闘し勝つが、以後消息不明。
樋口家は定次以来代々、通称を十郎左衛門、隠居名を十郎兵衛とした。
11世定勝は寛永11年の御前試合に出場したと樋口家の記録にある。明暦元年(1655)、79歳(数え年)で没。
参考:綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
杉田幸三『精選日本剣客事典』(光文社、1988.8)
念流第11世。第8世樋口又七郎定次から数えて3代目。第9世は定次の弟・主膳頼次が継承したが、第10世と11世は定次の遺児二人が継承した。
定勝は定次の末子で、幼時より神童と謳われ刻苦修行して遂に念流の蘊奥を極めた。
初名作十郎、後に十兵衛、十左衛門と改名した。更に隠居後は十郎兵衛とも称した。
念流の達人であると同時に学者であり、高潔な人格者であったという。
その剣名は当時の上州一円を風靡して門弟は千余に及び、数多の諸大名からの高禄の招請があったが、終生仕えることはなかった。
明暦元年(1655)、79(69?)で没。
参考:諸田政治『上毛剣術史』下(煥乎堂、1991.6)
以下、念流について。
念流は南北朝時代から室町時代初期にかけての剣僧念阿弥慈恩(慈音)を流祖とし、その高弟赤松慈三から小笠原甲明・同氏綱・同氏景・同氏重・友松氏宗と伝わった系統が今日に知られている。
馬庭念流の直系樋口家の『当家先祖覚書』によれば、氏宗は眼医者を兼ねて諸国に剣術修行をし、各地で門人を取り立てたという。
その氏宗の高弟に上野国多胡郡馬庭の人、樋口定次が出た。
彼は師に従って諸国を廻り修行し、1591年に『念流兵法目録』『印加書』を受け、1596年には伝書を譲り受け、1598年重ねて伝授状を与えられている。
この系統は、以後樋口家代々によって馬庭に伝わり、馬庭念流と呼ばれ今日も同地を中心として伝習されている。
参考:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第10巻(吉川弘文館、1989.9) * 念流の項
*23 伊藤孫兵衛忠一(1604~1672)
前将軍家剣法指南役・小野次郎右衛門忠明の姉の子。次郎右衛門忠常とは従兄弟。水戸派一刀流の祖。
一刀流流祖・伊藤一刀斎の伊藤姓を継ぐ。
忠常と共に忠明のもとで切磋琢磨して、二人志を合わせて工夫を凝らし、ある日忠明の面前で忠常と技を顕わして覧せた上、「一刀流の夢想剣は是であろう」と訊ねた。
忠明は黙して二人を密室に誘って盃を差し、その精励入神を賞したという。
寛永8,9年、28,9歳で水戸藩初代の頼房に仕える(水野忠善の推薦、大番頭250石)。痩躯短身ではじめは侮られたという。
寛文3年(1663)、致仕して遊閑と号す。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
彼の周辺には同じく伊藤姓を継ぎ、宝刀“甕割”をも受け継ぎ、墓碑に『三世伊東一刀斎』とある伊藤典膳忠也(1603~1680)がいる。
典膳忠也は小野忠明の弟とも子とも言われる人で、忠也派一刀流を興した。
『刃牙』の鎬兄弟のように、忠常・忠一の間に従兄弟同士の因縁があったかどうかは不詳。
ただ、伊藤典膳忠也を小野忠常の兄とする説があるので、孫兵衛忠一の方が次郎右衛門忠常より年上であったと思う。
1651年には家光に同藩の木内安右衛門と共に兵法上覧をしている(『徳川実紀』第四編に記述あり)。
*24 林田左門(????~????)
諱は重久・重成。父は越前朝倉藩士・林田重国、母は富田勢源の娘。
戸田清玄に学んで小太刀の秘法を継ぎ、戸田流林田派の祖(14代藤木道満の弟子が高柳又四郎)。
筑前の黒田如水に仕える。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
筑前国で黒田長政〜忠之に仕え、600石を食む戸田流剣士。戸田流林田派の祖。
(流祖・戸田清玄は天正18年ごろの人で、富田勢源の弟子で、鐘捲自斎の弟という。)
黒田家によく仕え藩主の信任厚かったが、忠之の代に罪を得て死罪となったという。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
左門は富田勢源の甥とも門人ともいう。戸田流で黒田長政に仕える。
戸田流の祖・戸田清玄=富田勢源で、勢源は弟・治部左衛門景政に家を譲ったので名を改めたという。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
林田左門と信太朝勝については興味深いエピソードが残っているので後述。
*25 小笠原源信斎長治(????~????)
遠江高天神城主小笠原長忠の弟(一説に甥)。金左衛門尉。のち上総入道。
上泉信綱・奥山休賀斎らに新陰流を学び、真新陰流を興した。
高天神城落城後は豊臣秀吉に仕える。大坂落城後、中国大陸へ亡命(関東方へ憚ってのこと)。
中国で張良の末孫という人物から矛の術を学び、八寸の延金(のべがね)という武術を考案したという。
弟子・相弟子との立合いには無敵を誇り、「故伊勢守師も敵うまじ」と言わしめたとか。
真新陰流から針ヶ谷夕雲が無住心剣流を起こし、小田切一雲(片桐空鈍)、真理谷円四郎と続く。また、直心流を建てた神谷伝心斎も彼の門人。
高天神城主小笠原長忠が武田と徳川に状況に応じて属し、徳川に2度、武田に3度降参したため、家康が彼に詰め腹を切らせてのち一族は入唐したという(『兵法覚書』)。
また一説に、小田原陣で北条に属し敗れたために唐入りしたともいう。
参考:笹間良彦『図説日本武道事典』(柏書房、1982.11)
軍法非切書に拠ると、天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めのとき、箱根山中の城に籠った小笠原長忠勢の内に金左衛門長治の名が見える。
兄が罪を得たので弟も山中に籠城し、落城の後浪人して剣術の指南をしたものであろう。
また、直心影流の切紙究理秘解弁によると、兄長忠が切腹となり一族悉く浪人し、長治は上泉の弟子の多い西国に赴き、そこから唐に渡ったという。
入唐して異国の武士と交流し、日本流の新陰流兵法を指南しているうちに、張良が末孫であるという者が弟子の内にいた。
長治は彼に中国流の武術を学び、「八寸の延曲」の秘法を編んだ。
八寸の延曲とは、「順に打つと四寸延び、足を出さずに体を捻って打つと八寸延びる」ものという。詳細不明。
帰朝の後、長治は上泉伝の古き相弟子達と立ち会い八寸の延曲を試みたところ、一人も敵する者がなかった。
「恐らく先師上泉が存生で立ち向かうとも、後れを取ることはあるまい」と賞された彼は、信州の伊豆奈山から江戸に出た。
小網町に道場を開いて門弟を指導し、弟子3,000人に及んだという。
その後、江戸で没したとも、信州に隠居してその行く所を知らずともいう。
参考:富永堅吾『剣道五百年史』(百泉書房、1972.3)
生没年未詳だが、山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)によると、没年は寛永20年(1643)であるという。
*26 根岸兎角(????~????)
天正年代の人。常陸江戸崎の師岡一羽(1533~1593)の晩年の三人の弟子の一人(あとの二人は岩間小熊・土子泥之助)。
癩病の師を残して小田原に出奔、のち江戸に出て微塵流の道場を開いた裏切者。
その後、岩間・土子と兎角は敵対するが、その辺の経緯を『武芸小伝』の記述をもとに見ていく。
岩間・土子は差料衣類に至るまで売り払い、約3年間師の看病に充てたが、やがて一羽師は没し二人はこれを葬った。
一方の兎角は相州小田原で天下無双の名人を自称し、身の丈高く、髪は山伏の如く、目に角あって物凄く、天狗の変化という。
愛宕山太郎坊、夜な夜な来りて兵法の秘術を伝えたと言い、微塵流を提唱し人に教え弟子多く、後に武州江戸へ出てからも大名小名に弟子が多くあった。
この由を伝え聞いた常陸の両人は兎角の師恩を知らない無道を責め、彼を木刀で打ち殺し屍を路頭に晒し恥を与えてくれようと息巻いた。
しかし、彼一人を二人して討つのは世の聞こえもよくないであろうから、籤を引いて当った方が江戸に行くべしと定め、当り籤を引いた岩間小熊が江戸に向かうことになった。
土子は常陸国に留まり、時日を移さず鹿島明神に詣でて、岩間の勝利を祈った。
小熊は江戸に着くと御城の橋のたもとに札を立てた。(『早雲記』のみに記載のエピソード。大手大橋といい、決闘もここで行なわれたという。)
札の趣は「兵法、望みの人之有るに於ては、其の仁と勝負を決し、師弟の役を定むべし。文禄二年癸巳九月十五日、日本無双岩間小熊」というもの。
この時の小熊の様相は、小男にて色黒く、髪は禿(かむろ)の如く、頬髯厚く生えたる内に眼煌き、名の通り小熊のようであったという。
当時、兎角には弟子が数百人あったが、この札を見て色めきたち、皆で小熊の許へ押し寄せ棒にて打ち殺してくれようなどと罵り合った。
その様を兎角は聞いて、小熊を「飛んで火に入る夏の虫」と評し、ただ一打に我打ち殺し諸人に見せん、と放言し、奉行所に決闘の許可を取り付けた。
根岸・岩間は橋(常盤橋。『早雲記』では大手大橋)へ出て木刀で試合をすることになった(家康の台聴に達し山田豊前守が奉行をし、家康自身も櫓から試合を見たという)。
奉行衆は橋の両側を弓槍を持って警固し、両人の刀・脇差を預かる。
兎角の得物は木刀を六角に太く長く作り、鉄筋を通し、所々に鉄の疣を据えた物。小熊の得物は常の木刀であった。
両人より進み懸けて打ち、鍔迫り合いになり互いに押すかと見えたが、小熊は兎角を橋桁に押し付け、片足を取って逆さまに河へ投げ落とした。
そうして小熊は木刀を捨てて短刀を抜き、声を発して欄干を斬って己の勇威を衆人に示し、大いに英名を顕したという(『早雲記』に記載なし)。
濡れ鼠となった兎角は、そのまま逐電した。これより兎角の門人は皆小熊に従い刀術を習ったという。
しかし、一部の兎角の門人は、密かに小熊を害して、師の仇を報じようと欲した。
彼らは謀って小熊を風呂に誘い浴室に閉じ込め、甚だ熱して彼の正気を失わせようとした。
ようやく浴室を脱した小熊は倒れ、待ち構えていた彼らによって斬殺された。
(武道書刊行会編『新編 武術叢書』人物往来社、1968.5)
常盤橋での敗北を恥じた兎角はそのまま西国に逃亡した。
しかし門人らが勝った小熊を暗殺するなど、卑劣漢ながら人望はあったらしい。
九州まで落ち延びた兎角は信太大和守朝勝と名乗り筑前黒田家に仕えるが、のちに辞して上京、中国地方で病死したという。
人望のあるヒール(悪役)キャラとして出場させたが、正直3回戦まで勝ち残れるか怪しい。
それに、『早雲記』に決闘は文禄2年(1593)とあるから、1634年時点で生存しているかどうかも怪しい。
でも他にヒール剣客を思いつかなかったので……。
*27 小野次郎右衛門忠常(????~1665)
家光に仕え書院番。1633年200石を加増され800石。その後、番を辞し小普請。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十五(続群書類従完成会、1965.9)
前将軍家剣法指南役・小野次郎右衛門忠明の子で、現将軍家剣法指南役。伊藤孫兵衛忠一は従兄弟にあたる。
伊藤一刀斎以降の一刀流は、彼の時期に大きく二つに分岐する。
小野忠常以降の小野派一刀流と、兄弟とも叔父とも伝えられる伊藤典膳忠也による忠也派一刀流である。
堀正平『大日本剣道史』によると、1608年生まれ1665年没、享年58(数え年)であるという。
これに対し、伊藤孫兵衛忠一は1604年生まれなので、孫兵衛の方が年上。
刀術に見識のある人で、将軍が上覧試合を仰せ出だされると、「平常稽古を積んでいるから特別に工夫することもないし、もし稽古で不測の怪我でもすると上覧当日の妨げになるから」と、その日から試合当日までの毎日の稽古を一切やめてしまったという。
――綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
しかし、忠常は性質父に似て倣岸の風があり、技芸の自負心増長して狂を発したという。
――山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
父に劣らぬ名人であったが、天性自負が強い人であったらしい。
家光は剣術を好み柳生と小野の両流を習ったが、但馬守宗矩は御意に叶うようにあしらいながら教えたのに対し、忠常は容赦手加減せずに教えた。
某日、次郎右衛門忠常は桜田御門橋の先に行き掛かったが、御城普請の大石が橋の上で渋滞を起こし、道が塞がり通れないことがあった。
忠常は身の軽いことで知られた人であったが、このとき俄かに顔色を変え、その大石を飛び越え門の前に立ったという。
この日から忠常は振舞が尋常でなくなり、狂気の如くあったという。(日夏繁高『本朝武芸小伝』)
――武道書刊行会編『新編 武術叢書』(人物往来社、1968.5)
大石を飛び越えた日から狂人となるという記述が滅茶苦茶怪しい。
その日というのを調べてみると、『史料綜覧』第十七編に、
「寛永十四年二月、細川忠利、江戸城本丸改築用の階石五百を幕府に献上」(要約)という記事があった。
寛永14年というのは1637年のこと。すぐ次の記事が2月13日だったから、2月中旬の出来事だと思う。
この日から振舞が尋常でなくなり、書院番から小普請(閑職と名高い)に落とされたとする。
ほぼ同時期の1638年に勘気を受けていた柳生十兵衛は書院番で復帰する。
これは何か関わりがあるだろ……。時代小説脳的に考えて……。
*28 田宮対馬守長勝(????~????)
田宮平兵衛重政(重正、成正、茂正、業正)を開祖とする田宮流居合の二代目。
(一説には、田宮重政の居合は師の林崎甚助重信による神明夢想流で、長勝が田宮流の初代であるとか。)
平兵衛重政は東下野守元治に学んで神明無想東流の奥旨を極め、また元治の師・林崎甚助重信について抜刀術の妙を得たと伝える。
子の対馬守長勝は父の芸を継ぎ、姫路藩主池田輝政・利隆二代に仕え、のち大坂の陣での功績を家康に賞されて浜松城主・徳川頼宣の麾下に加わり800石。
紀伊徳川家成立以後、代々和歌山家中の剣術指南を命ぜられ、田宮の苗字をもって流名を唱えることとなった。隠居後は常円入道を名乗る。
参考:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第9巻(吉川弘文館、1988.9)
長勝の子・平兵衛長家は将軍家光に召されて江戸に出て、慶安4年3月6日、家光の病中その座所において抜刀術を上覧に供し、時服及び銀10枚を賞として拝領したという(『徳川実紀』第四編に記述あり)。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.5)
*29 荒木又右衛門保知(1598~1638)
伊賀国服部郷荒木村生まれ。前名・服部丑之助。一時養子に出るが,のち荒木姓を名乗る。
神道流・中条流・新陰流を学び一流を建て、大和郡山藩、松平下総守忠明の家中で剣術師範(250石)。
鍵屋の辻の仇討(1634)で36人を斬ったというのは完全なフィクションで、実際に斬ったのは河合甚左衛門・桜井半兵衛とその家来の3人のみ、逃亡者を合わせても河合方は20名程度であったらしい。
新陰流は柳生宗矩に学んだとも十兵衛に学んだともいわれるが(いずれにせよ江戸柳生系)、可能性があるとしたら十兵衛。
また、鍵屋の辻で佩刀伊賀守金道を折ってしまったことを藤堂藩士・戸波又兵衛に窘められその場で入門したというが、この戸波は新陰流であったという。
今回のコピペは仇討前の出来事なので、「仇討で磨いた」というフレーズが使えず残念。
伊賀越仇討後の荒木の師・戸波又兵衛は宗矩の孫弟子(村田与三の弟子)であるという。
また、柳生十兵衛著『新陰月見伝』に「宗矩から又右衛門に出した目録を見た」という記述がある。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.4)
丑之助・巳之助という幼名は俗説という。
父・服部平右衛門は藤堂家の浪人で、岡山藩池田家に仕えて300石。
又右衛門はその次男で池田侯の児小姓として出仕していたが、12歳で本多甲斐守正朝の家来服部平兵衛の養子となる。
養父から中条流、叔父山田幸兵衛から神道流を学ぶ。
26歳で養家から離縁され、故郷伊賀国服部郷へ帰り一時菊山姓、のち荒木姓を名乗り、郡山藩松平下総守に仕える。
柳生十兵衛の門人であるとする説を採るなら、十兵衛勘当の1626年から。又右衛門は大和郡山藩の剣術師範となり250石。
妻は岡山藩士渡辺教馬(初代数馬、旧名内蔵助)の長女。
舅数馬は元藤堂藩士として服部平右衛門と同僚であり、共に浪人し岡山藩に新規に召抱えられ知行も共に300石であった。
長男は早世、次男が相続して二代目数馬となり、又右衛門妻の末弟源太夫が同藩士河合又五郎に殺されたため、兄数馬の助人として仇討の旅に出た。
本懐後は伊賀藤堂家に保護され、そこで同藩士戸波又兵衛に新陰流を学んだ。
(また別に、戸波は伊賀者で、はじめ長宗我部、のち藤堂家に仕え、中条流から出た忍び特有の短剣・陰剣を用いて陰剣法・戸波流を称したという。)
荒木・渡辺両人は鳥取藩池田光仲(岡山から移封)の請いによって1638年8月、鳥取藩に引き取られた。しかし又右衛門は同月28日、41歳で急死。
河合の残党から危を避けるため表向き病死を装い、実際は1643年9月24日46歳で死去したという俚説もある。
山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)にも「真の没年詳らかならず」とある。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
父・平左衛門は伊賀忍び服部半蔵の一門であったが、子の丑之助は成長するにしたがって体格が人並以上に大きくなり、忍びに適さなかったという。
師については、江戸柳生家ではなく尾張柳生家ではないかという指摘がある(典厩五郎説を田中芳兼が補足、ただし傍証史料なし)。
柳生十兵衛は1626〜1638年まで柳生にいたが、荒木又右衛門は1625年に大和郡山藩に仕官したので、師は十兵衛ではないとする。
1617年に名を改め荒木村に帰り、大和郡山藩に仕官するまでの8年間に柳生兵庫に師事したと見ているようだ。
又右衛門は鍵屋の辻で桜井半兵衛を斬るが、その際に半兵衛の家来・市蔵の木刀を受け佩刀・伊賀守金道を折ってしまう。
のちに彼は半兵衛の死を惜しみ、折れた金道を手元に置いて彼の健気な最後を偲んでいたという(『大日本刀剣新考』)。
参考:田中芳兼『新説荒木又右衛門』(今井書店、2003.5)
*30 大久保彦左衛門忠教(1560~1639)
三河に徳川家譜代の臣・大久保忠員の子として生まれる。
1575年から家康に仕え数々の戦功を挙げ、甥・忠隣の所領のうち武州埼玉郡内で2,000石を領した。
1614年、甥忠隣の改易に際し、それまでの所領に代わり三河額田郡で1,000石を新たに与えられる。大坂の陣では鎗奉行。
1633年、額田郡内で1,000石加増を受け、合わせて2,000石を知行した。
1635年、三河の300石の地を常陸鹿島郡に替えられた。1639年没。彼の後は長子忠名が継いだ。
大久保一族は家康覇業の功臣であり、兄忠世、その嫡子忠隣は重く用いられたが、忠隣の改易より一族の不遇時代がしばらく続いたので、時勢に対する彦左衛門の不満の一因がここにあったと推察される。
その上、三代に使えた戦場生き残りの旗本として他に譲らぬ自負と誇りがあり、泰平無事の時代の世相と人心の移り変わりにあきたらず、時勢に追随せず古武士の意地を押し通す処世の態度を取ったようである。
著『三河物語』に、彼の時勢批判意識をうかがい知ることができる。
彼の死後、諸書に事蹟や逸話が伝えられ、その中には「鶴の吸物」「献上の宇治茶壷に敬礼しなかった話」「松平伊豆守をやり込めた話」「贅沢を諷刺した奇行振」などもある。
権威におもねらぬ気骨が特に親しまれ、やがて明治に入り、講談などで民衆の人気者彦左の人間像が作られ、今日に至ってもその人気は衰えない。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第2巻(吉川弘文館、1980.7)
戦国時代の武将。徳川家臣大久保忠員の八男。兄に大久保忠世、大久保忠佐、大久保忠為ら。『三河物語』の著者として知られる。
盥に乗って登城したとか将軍家光にちょくちょく諫言して「天下の御意見番」と呼ばれた等の逸話は、後世の講談や講釈の中での創作。
しかし、常に多くの浪人たちを養ってその仕官活動を支援していたといわれており、様々な人々から義侠の士と慕われていたのは事実であるらしい。
戦場での斬り覚えだけで勝ち進んできた実力(兵法は素人、実戦経験>剣術理論)が花山に通じるため出場してもらった。かぶき者・水野成貞も内心は彦左の侠気(乃至カリスマ性)に憧れていたのではないかと推測。
……でも柳生兵庫と途中まで互角に戦うのは無理あり過ぎか。
*31 鍋島紀伊守元茂(1602~1654)
1602年肥前国蓮池生まれ。1614年はじめて秀忠に拝謁。
父・勝茂の封地肥前佐嘉(佐賀)・小城・松浦三郡内から73,200石を賜い、佐嘉城西丸に住む。
1619年、従五位下紀伊守。1626年・1634年、家光上洛に供奉。
のち家光の剣術の相手を務め、打太刀をつとめ金地の扇に手づから刀法の意味を書きて賜う。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十三(続群書類従完成会、1965.7)
生母は鍋島勝茂の先室戸田氏の侍女。生母の身分が低かったため、佐賀本藩の家督は次男忠直が継ぐ。
1616年、柳生宗矩の門人となり、1618年、柳生新陰流の兵法免状を受け、のち将軍家光の打太刀を命ぜられた。
柳生流のほか大坪流馬術、生花、湯茶に至るまで20余種の免許を受け指南の許可を得ている。
元和3年(1617)、祖父直茂・父勝茂から所領23,000石余を譲り受け、肥前小城藩の基礎が確立。
寛永17年(1640)、この年はじめて幕府に部屋住格の分家と認められ、肥前国小城藩73,000石初代藩主。
――藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典』第四巻(新人物往来社、1986.6)
肥前佐賀藩主鍋島勝茂の長男。従五位下紀伊守。肥前国小城の初代藩主。
元茂は剣の腕に優れた達人で、柳生宗矩から印可書を一番に受けたと言われている。五味康祐『柳生武芸帳』にも登場している。
上記のように剣だけでなく諸芸に優れた多芸大名。こういった芸能に対する関心の高さでは鍋島家は細川家にも劣らないものと思う。
1634年当時は藩主ではなく、鍋島家部屋住の庶子として江戸に居住していたのだと思う。
のち宗矩は彼に新陰流の兵法目録『新陰流兵法之書』及び自著『兵法家伝書』を与えている。
また、彼の弟・鍋島和泉守直朝(1622〜1709。はじめ茂継、肥前鹿島20,000石を継ぐ)も柳生宗矩に師事し一流に達した名人であるという。
和泉守直朝は自ら一流を起こして鹿島家流兵法と称し一藩に教授した、と山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)にある。
*32 柳生兵庫助利厳(1579~1650)
柳生石舟斎宗厳の長男・新次郎厳勝の次男として生まれた。
父厳勝は若年の頃二度の戦傷を受け不自由の身であったので、利厳は祖父宗厳に剣を学び、その奥儀を極めた。
1603年加藤清正に仕えたが、故あって間もなくここを去り柳生に戻った。
しかしその頃柳生の地は叔父宗矩の所領となっており、利厳は処士として専心兵法修行に没入した。
やがて1615年、名古屋藩の付家老・成瀬正成の推薦により徳川義直に召抱えられ500石を受けた。
そして義直の剣術師範を命ぜられ1621年には印加を呈している。
1648年隠居し、如雲斎と号した。次男利方が家督を継ぐ。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第14巻(吉川弘文館、1993.4)
はじめ長慶、加藤家仕官中より伊予守と名乗る。
文禄5年(1596)18歳のとき疋田豊五郎景兼から小笠原流軍法の極意を受ける。
慶長8年(1603)、加藤家仕官中に宗厳から兵法奥書二巻を授かる。
浪人後の慶長11年、宗厳の新陰流全研究書、印加、出雲守永則の大太刀(4尺7寸8分=約145a。実用的なものでなく武威を示すもの)、上泉師直筆の目録四巻を新たに授かる。
加藤家浪人後の武者修行中、宗厳没までに紀州熊野山中の隠士・阿多棒庵に師事する(穴沢流薙刀・槍の印加を受けるのは宗厳没後3年の慶長14=1609年)。
棒庵の素性は明らかでないが、関ヶ原の戦で敗れた西軍に加わっていた阿多氏一族の者で、穴沢秀俊入道浄見から新当流の薙刀・槍を学んで印加を受けた人という。
その後、1609年〜1615年頃(31,2〜37歳頃)までの彼の動静はあまり明らかでない。
参考:今村嘉雄『柳生一族 ―新陰流の系譜―』(新人物往来社、1971.1)
柳生厳長『正伝新陰流』(島津書房、1989.2) * 講談社、1957.9の改版。著作権者は柳生延春氏。
柳生石舟斎の嫡男・新次郎厳勝の次男。又右衛門宗矩は叔父、十兵衛三厳は従弟にあたる。
宗矩が将軍家に仕え江戸柳生と称されたのに対し、利厳は尾張徳川家に仕え尾張柳生と称された。
新陰流の正統継承者であり、以後新陰流は尾張柳生と尾張徳川家が継承していく。
この事実から将軍家剣法指南の江戸柳生を亜流とする(新陰流・柳生新陰流と呼ばず柳生流と呼ぶ)向きもあり、両家の仲は芳しくなかったとされる。
ちなみに時代小説愛好家の間では、実力は兵庫助利厳>但馬守宗矩がほぼ定説となっている。
彼と島左近の娘との間に生まれた三男が、天才・連也斎厳包。
*33 柳生十兵衛三厳(1607~1650)
但馬守宗矩の長男。
1616年秀忠に仕え、1619年家光の小姓に。1626年、勘気(理由不詳)を蒙り致仕。1638年許され書院番として再出仕。
1646年、父の遺領12,500石から8,300石を賜り旗本となる(残り4,000石は主膳宗冬、200石は柳生家菩提寺芳徳寺義仙和尚に)。
剣と文学に通じるが、1650年、山城国相楽郡北大河原村弓ヶ淵で放鷹中に急死した。
放浪中、柳生正木坂に隠居し剣術を教授、弟子13,600余人を数えたという。
致仕後、赦免されて再び出仕するまでの十年余は、ほとんど柳生の地にあって新陰流の事理に関する研究に心根を傾けていたらしい。
かくて1638年江戸に出、父宗矩の直伝を受け、その折自己の兵法論一巻をまとめて呈出し、その年11月に印加を受けた。
やや性格に円満さを欠いていたらしいが、家芸新陰流の研究に徹底した人で、その著『月之抄』(1642年頃成立)は代表作である。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十七(続群書類従完成会、1965.11)
市古貞次他編『国書人名辞典』第四巻(岩波書店、1998.11)
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第14巻(吉川弘文館、1993.4)
藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典』第三巻(新人物往来社、1987.4)
幼名七郎。
剣の実力は父を凌ぎ、当代随一の剛剣の遣い手と言われる。彼もまた武蔵同様、謎の多い剣士で、妄想の余地が多い。
たとえば、彼の死地・山城国相楽郡はかつて弟の友矩の所領であった(友矩没後、宗矩の大和柳生藩に併合)。
友矩は江戸柳生家内部で謀殺されたという噂があるから、恨みに思った友矩旧臣が十兵衛を彼の地で襲って討ち取った、と推測するのが綿谷雪氏。
有名な隻眼説もある。柳生厳長氏によると「少年の頃『燕飛』の稽古で、その第四『月影』の打太刀を父宗矩から習うとき、父の使太刀の『月影の打ち』の――迅電(いなずま)と打ち下ろした木太刀の太刀鋒が、七郎が上段に入り身――ふせぎ入りをするその太刀の上を越して、その電光が右眼に入ったため」以後隻眼になったという。
(柳生厳長『正伝新陰流』島津書房、1989.2) * 講談社、1957.9の改版。著作権者は柳生延春氏。
また、彼は勘気を蒙ったのち1638年書院番に返り咲くが、上記小野忠常の項で書いたように、ほぼ同じ時期に忠常は書院番から小普請に落とされている(私見・推測)。
何らかの形で小野家の追い落としを図ったのではないか?
……などなど。
*34 河合甚左衛門(1594~1634)
大和郡山藩、松平忠明家中で剣術指南役(300石)を務める。荒木又右衛門は同僚。
河合又五郎の叔父である関係で助太刀に立つが、鍵屋の辻で又五郎・桜井半兵衛(摂津尼崎藩槍術指南役、縁戚)ともども荒木又右衛門に斬られる。
鍵屋の辻の仇討を記録した藤堂家公文書『累世紀事』によると、「松平下総守殿家中にて三百石取」、享年41(数え年)であるという。
一説に槍術で仕えたといい、また甚介という名の弟は半弓の名人であったという。
参考:中林正三『伊賀越敵討研究』(伊賀時報社、1922.12)
「伊賀越敵討」(早稲田大学編集部編『近世実録全書』第3巻、早稲田大学出版部、1917.9。『琢磨兵林』から採録)では没年53(数え年)。
*35 桜井半兵衛(1611~1634)
天流・斎藤伝鬼坊勝秀と争って死んだ桜井霞之助の兄・大炊頭の孫。
桜井大炊は神道流の伝を父・大隈守吉勝から得るが、地元で人を斬って出奔、上方へ赴き戸田氏鉄(近江膳所、のち摂津尼崎)に仕える。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
霞流(神道流系)・桜井大隈守吉勝の曾孫。「霞の半兵衛」の異名を持つ槍の名人。摂津尼崎藩戸田家の槍術指南役。
河合又五郎の妹婿である関係で助太刀に立つが、鍵屋の辻で又五郎・河合甚左衛門(大和郡山藩剣術指南役、縁戚)ともども荒木又右衛門に斬られる。
鍵屋の辻の仇討を記録した藤堂家公文書『累世紀事』によると、「戸田左門殿家中にて二百石取」、享年24(数え年)であるという。
父久左衛門、弟孫兵衛も戸田家に仕えていた(孫兵衛は戸田采女家中で150石)。
参考:中林正三『伊賀越敵討研究』(伊賀時報社、1922.12)
間違いなく神道流の槍術者と思われるが、講談などでは宝蔵院流十文字槍の名人として伝えられている。
*36 土子泥之助(????~????)
土呂之助とも。一羽流・師岡一羽(1533~1593)の晩年の弟子で、根岸兎角・岩間小熊とは同門。
師を裏切った兎角に復讐するために、鹿島大明神で壮絶な呪詛(小熊が負けて自分も負けたら神前で切腹して悪霊になる)をおこなった。
結局小熊は勝って(暗殺されたが)兎角は都落ちしたので、鹿島大明神の平和は守られたのであった。めでたしめでたし。
彼は小熊が師の仇を報じたことを聞いて喜び、鹿島神宮に御礼の祈願を捧げ、破損建立に尽くした。
また師の伝を伝えるため道場を設け門弟の養成に力を入れた。
泥之助の弟子・水谷八弥は家康に仕えようとして叶わず、遠江で大須賀松平五郎左衛門康高(のちの榊原忠次)に仕える。
八弥は駿河浅間で武芸者と試合して勝ち大いに名を挙げ、この門から家所伊右衛門が出て、秀頼に仕え大坂陣で戦死したという。
(日夏繁高『本朝武芸小伝』原文を読む限り、大坂陣で戦死したのは水谷八弥である、と読み取ることも可能。)
師の泥之助については、あるとき霞ヶ浦に出現した人喰い大亀を弓矢で射て湖中に沈めたことがあった。
数年後に彼は鎌倉江ノ島に参詣に行ったとき、拝殿にかつて射た矢が奉納されているのを見る。
不審に思い社人に訊ねたところ、亀の甲も保存されてあると聞き驚愕したという。
そのためか分からないが、常州江戸崎に帰り間もなく死んでしまったという。
(堀正平『大日本剣道史』の説では、奉納されてあった大亀の骸を足蹴にしたときに転んで大怪我をし、その傷がもとで死んだという。)
参考:武道書刊行会編『新編 武術叢書』(人物往来社、1968.5)
中村広修『茨城の剣道史』(暁印書館、1975.6)
茨城県剣友会編『茨城の武芸 剣の巻』(筑波書林、1986.7)
土子泥之助の子孫は代々泥之助を名乗って、昭和の今日も行方郡太田村字矢幡に住居すという。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.5)
兎角と雌雄を決しなかった点は「幻の対決」と言えなくもないので、今回は無理矢理に出場。
栗木風に発狂した桜井半兵衛の槍を止められたのも、同門神道流ならでは、と解釈してくれるとうれしい。
試合出場は江ノ島参詣後のことで、このとき怪我した足の傷を対戦相手の小笠原長治に見破られ負ける、って展開で。
*37 小野次郎右衛門忠明(1565~1628)
はじめ神子上典膳といい、安房里見家に属した。少壮にして伊藤一刀斎に剣を学び奥儀を極めた。
1593年家康に謁し、秀忠に仕え200石。のち家康の仰せで神子上姓を改め、母方の小野氏を称した。
関ヶ原の戦いでは信州上田攻城で武功を賞されたが軍令を犯して罪を得、真田信幸に預けられ上州吾妻に蟄居。のち赦され加増され600石となった。
大坂の陣にも従軍したが、朋輩の働きを誹謗して閉門処分があり、激しい性格であったらしい。
忠明は一刀斎の道統を伝えたが、決して師伝を墨守したのではなく、諸流を研究し十分に新工夫を加えたらしい。
門人の一人、大河内秀元はその著『不伝妙集』二に「しんかげをつかひかへたる典膳秘事之一流不残相伝す」とさえ記している。
すなわち、当時名声の高かった新陰流からも勿論学びとったのであろう。
そして徳川家に仕えては秀忠に秘事を呈し、土井利勝・青山忠俊ら側近の大名をも門下とし、一族にはよい後継者を出し、優位の門人を得、江戸時代における一刀流繁栄の基を開いた。
参考:国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第2巻(吉川弘文館、1980.7)
高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十五(続群書類従完成会、1965.9)
神子上氏は大和の十市氏の後裔で、上総国夷隅郡丸山町神子上の地に来て郷士となり、やがて里見氏に仕えた。
典膳吉明ははじめ三神流(伝未詳)の剣士で、のち一刀斎に師事。
――綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
生年は笹森順造『一刀流極意』(一刀流極意刊行会、1965.11)に永禄8年(1565)と明記されているが、1560年説(享年69歳としているものからの逆算)もある。
前名・神子上典膳吉明。伊藤一刀斎の弟子で、一刀流正統継承者。元将軍家剣法指南役。忠常の父で、忠一の叔父。
もう一人の将軍家剣法指南・柳生宗矩を凌ぐ腕前という評価が高いが、蛮勇を伝える逸話が数多く残っており、尊大・倣岸・粗暴な振舞が多かったため御前から遠ざけられた。
寛永初年に死去しているが、鳴海丈『修羅之介斬魔劍』では野獣の如き老剣鬼で、生きて幽閉されていたという設定で登場した。
今回の出場はその作品と設定へのオマージュ。
*38 柳生左門友矩(1613~1639)
1627年はじめて家光に拝謁し小姓となる。1634年、家光に従い上洛。同年、徒頭、従五位下刑部少輔、山城国相楽郡に采地2,000石を賜う。
のち病に罹り柳生に赴く。これより先、常に家光の剣術の相手をつとめる。1639年、柳生に死す。
参考:高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編『寛政重修諸家譜』第十七(続群書類従完成会、1965.11)
『柳営補任』に徒頭八番組、1633~1638年、柳生刑部宗春とある。おそらく同一人物(宗冬の子の宗春と混同か)だが、任官が『諸家譜』より一年早い。誤記だろう。
『諸家譜』の方も享年38としているが、左門友矩は又十郎宗冬と異腹で同い年の兄弟なので、享年27(数え年)が正しい。
また、『柳生藩旧記』には「御知行四万石下さるべしとの御内意在り、宗矩公に増したる御出頭故に、宗矩公の御意に入らずという」、
『玉栄拾遺』には、
「成長の後、性質無双文才に富み、又新陰の術に長じたまう。寛永四丁卯年十五歳にて始めて大猷大君に拝謁し勤仕し甚だ君寵を得たまう。
時の人称して曰く、後必ず股肱の臣たるべし、と。(中略)
其後別に諸侯たらしめんと御内証の処、如何してか、宗矩公答辞不明なり。故に其実無く程無く病に伏す。(中略)
(没後)平日座右の櫃を閲きたまえば、十三万石の御内印あり。(割注・或いは云う、四万石と。孰れが是と知れず。)
父公甚だ哀悼して密かにこれを返呈し、弟宗冬公殊に友悌故、愁いて止まず」
……とある。
参考:今村嘉雄編『改定 史料柳生新陰流』上巻(新人物往来社、1995.4)
将軍家光のお気に入りにして、江戸柳生家最大?の黒歴史。
家光の小姓として仕え、寵愛のあまり父・兄を差し置いて4万石(別の説では13万石)を約束されたという。
そもそも宗矩が30年余かかってやっと叙任した従五位下に、友矩は仕えてたった7年で叙任している(ちなみに十兵衛は無冠、宗冬の従五位下飛騨守は44歳のとき)。
但馬守宗矩は友矩を病気ということで大和柳生庄に逼塞させる。友矩は柳生でひっそりと“病死”。
相当な美青年ではあったようだが、上記の事情から父宗矩や兄十兵衛と比べた場合の剣の腕については伝わっていない。
だから隆慶一郎の短編「柳枝の剣」とか菊地秀行『柳生刑部秘剣行』とか妄想の余地もあるわけで……。
存在がキワモノ過ぎるので敢えて書かない、いないことにする作家も多い。
*39 愛洲移香斎久忠(1452~1538)
移香は別に惟孝とも書く。太郎左衛門久忠(新陰待舎流伝書では勝秀)。志摩(一説、日向)生まれ。
若年より九州・関東・明国辺まで渡航するという。
36歳のとき日向鵜戸明神の岩屋に参籠、満願の未明に神が猿の姿で奥儀を示し一巻の書を授けたという。
晩年は日向に住んで日向守と称した。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改定 武芸流派大事典』(1978.12)
影(陰)流は戦国時代初期に愛洲移香が開いた剣術の流儀。愛洲影(陰)流ともいう。
移香の子孫・平沢通有の記した先祖書『平沢家伝記』によれば、移香は伊勢の愛洲氏の出で、名は久忠、日向守と称したという。
剣法を好み諸国を巡り、日向国鵜戸の岩屋に参籠し、霊験により極意を得、一流を建てたという。
明末、茅元儀編纂の『武備志』86に、明将戚継光が嘉靖40年(1561)に陣中で得たという『影流之目録』の一部が出ている。
当時影流を学んだ者が倭寇の中にいたのであろう。
内容には猿飛・猿回・第三山陰などの太刀名がみえる。
この一連の技はのちに上泉信綱によって改革を加えられ、信綱の新影流にも「燕飛の太刀」として継がれた。
『平沢家伝記』によれば移香は天文7年(1538)没、年87とある。
子・小七郎宗通は常陸太田(江戸時代には秋田)城主・佐竹義重に仕え、同家中に伝統を残した。
宗通の傑出の門人に上泉信綱がある。
――国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』第3巻(吉川弘文館、1983.2) * 陰の流の項
愛洲氏は熊野海賊の一党で、南北朝の前後には南朝に属して伊勢の国主などに任じた家柄であるが、水軍に長じ専ら海外の八幡(ばはん、貿易兼略奪を目的とする海賊業)を稼業としていた。
移香は享徳元年(1452)生まれで、まだ愛洲一族が盛んに海外八幡に身を入れていた時代であるから、彼も若い頃から九州・関東方面はもとより、明国の沿海地帯にまで渡航して、大いに荒らしまわった。
樋口念流の『樋口家伝書』によれば、流祖念阿弥慈恩には14人の高弟があり、その一人である猿の御前の末孫が、愛洲移香であるという。
――綿谷雪『新・日本剣豪100選』(秋田書店、1990.5)
蓋シ愛洲は筑前国愛洲住人、愛洲日向守藤原意故(イコ、移香の転)ノ流也。意故嘗テ越前国独沽窟(どっこのいわや、脚注・一作鵜戸)ニ入テ刀術ヲ鍛煉スル時、蜘蛛ノ下来テ扇上ニ動作スルヲ見テ陰ノ流ト号シ、窟辺ノ河上、春燕ノ飛回シ、又河水横流ノ傍、柳枝ヲ攀(よじ)テ猿ノ飛行スルヲ見、感シテ終ニ奥旨ヲ得タリ。
――『玉栄拾遺』二(今村嘉雄編『改定 史料柳生新陰流』上、新人物往来社、1995.4)
剣聖・上泉伊勢守の打ち立てた新陰流の、更に元となる“陰流”を創始した人物。
海賊出身で奇襲戦法を得意とし、揺れる船上での戦いに適した太刀筋を編んだという。
やがて日向の鵜戸明神に参籠し、霊験あって猿の姿をした神から剣の奥義を授かり、陰流を興す。
(よく「猿の太刀」と呼ばれるのはこのエピソードから。)
以後は武者修行に励み、晩年は再び鵜戸明神の地に戻り、明神に仕え生涯を閉じたという。
史実ではとっくに死んでるけど、オーガクラスの存在感のある剣客がいないので彼を登場させてみた。でも何というかオーガ系ではなくて郭海皇系……。
十兵衛の祖父の石舟斎(故人)は息子の宗矩を差し置いて孫の利厳に印加あげちゃうような甘ちゃんなのでオーガっぽくないし。
塚原卜伝(故人)も上泉信綱(故人)も聖人っぽい陽性の人で、魔人という風格は見られない。
槍で卜伝に勝ったという草深甚四郎(故人)も相当怪しいがマイナー過ぎで却下。
松永久秀に仕え平蜘蛛の釜と共に信貴山城を脱出し柳生に伝えたという柳生松吟庵(故人。石舟斎の兄弟とか伯叔父とか)も以下略。
……等々考え合わせ、より翳りのある神秘的・妖怪的胡散臭さを秘めた愛洲移香斎にラスボスになってもらった。山田風太郎『柳生十兵衛死す』にも出てるしね。
ぴょんぴょん飛び回る系の老人をイメージ。彼の推薦者が松林蝙也斎なのも同様のイメージから。
*40 松林左馬助永吉(1593~1667)
願立は、願流と書かないで流の字を立を以てする。流祖の松林左馬助は、永吉といい無雪と号し、晩年に剃髪して蝙也斎と称えた。
常陸国鹿島の人である。一説には信州の浪士とある。
幼時より剣を好み、長じて志を立て、四方を周遊して修行を重ね、自ら一流を組織して願立と称えた。
刀術伝統録によると、慶長12年正月23日浅間嶽へ参籠して夢想活機の妙を悟り、夢想願主と号したとある。
はじめ幕臣の伊奈半十郎忠治に仕えて、武州の赤山に住んでいたが、寛永20年仙台の伊達忠宗が彼の名を聞き、伊奈に請うて300石を以て召抱え、彼を師範とした。
一説には、忠宗は300石で抱えたいと伊奈を通じて左馬助に告げたが彼はこれを聞かず、1,000石を賜ること能わないならこのまま伊奈氏に仕え続けたいと答えたという。
伊奈がこの言上を忠宗に告げると忠宗は笑って「自分もこれでは承知すまいと思った、希望に任せて禄を与えよう」と言い、彼を1,000石で召抱えた。
このことは武芸小伝・豪雄言行録・垂統大記抄などに見え、茨城県史には5,000石を要求したように記されてあるが、さすがにそれは誤りだろう。
慶安4年3月、将軍家光の召しに応じて技を台覧に供したことがあった。
彼は身体軽捷で縦横無尽に妙手振りを発揮して、着物の裾がひさしに当たることが両三度で、その様が蝙蝠の飛翔するに似ていた。
そして将軍から特にお褒めの言葉があったので、これから蝙也と号するようになったと伝えられる。
彼はよく小刀を以て飛んでいる蝿を撃つ(また別に蝿の首をも斬る)にその妙を極めたという。
ある人が彼に向かって言うには、昔源義経は戯れに柳の枝を切ってそれが水に落ちる前に八つに断ったと。
左馬助がこれを聞いて試みにこれを斬ったところ、水に落ちるまでに十三に斬ったので観る者が感賞したという。
また彼は抜刀千本を毎日の日課とし、死の当日までそれを怠らなかったという。
参考:富永堅吾『剣道五百年史』(百泉書房、1972.3)
信州埴科郡東条村長礼の人。文禄2年(1593)信州松代に生まれ夢想願流を夢想権之助に学んだとも、飯田藩士の次男ともいい不詳。
『武芸小伝』『撃剣叢談』『日本武術諸流集』等には常陸鹿島の人で鹿島流を学んだとする。
伊達忠宗に仕え始めるのは寛永20年(1643)、51歳から。慶安4年(1651)、60歳のとき家光に兵法上覧(『徳川実紀』第四編に記述あり)。
――綿谷雪・山田忠史編『増補大改訂 武芸流派大事典』(東京コピイ出版部、1978.12)
おまけ:トーナメント表(決勝戦まで)
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※笹間良彦『図説日本武道事典』(柏書房、1982.11)の「寛永御前試合」の項(抜粋)
明治28年(1895)に求光閣より田辺大竜講演今村次郎速記の『寛永御前試合』なる本が発行され、また大正2年(1913)に立川文庫本で、再び『寛永御前試合』の講談本が出版され、広く流布したので、史実と思う人も多かった。
大竜本も立川本もだいたい似ているが、こうした試合は行なわれていない。
これらの本によると、山田真竜軒と井伊直人、渋川判五郎と関口八郎、荒木又右衛門と宮本武蔵、寺西閑心と石川巖流、大久保彦左衛門と加賀爪甲斐守、東屋五郎兵衛と穴沢勝之進、高田又兵衛と吉岡又三郎、毛利玄達と大蔵院宮内、竹内加賀之助と梶原源左衛門、金井半兵衛と笹野権三郎、柳生十兵衛と宝蔵院覚禅坊、日置民部と鷲津七兵衛、伊達政宗と前田利常、土子土呂之助と山田伴山、羽賀井一心斎と磯畑伴蔵、丸橋忠弥と鬼塚五郎兵衛、塚原卜伝と伊東弥五郎、丸目蔵人と疋田文五郎、水野十郎左衛門と松平紋太郎、曲垣平九郎と和佐大八、関口弥太郎と朝比奈弥太郎、柳生飛騨守と由比正雪といった顔振れが寛永12年(1635)に江戸城内三代将軍家光の御前で試合したことになっている。
時代も人名も虚実さまざまで面白く語り出されているが、こうした御前試合は行なわれた形跡はない。
ただし江戸時代すでにある種の御前試合のようなものを行なった話が語り伝えられていたとみえて、小田真竜軒の講談がすでにできていたらしい。
説によると、御城坊主が『剣道上覧之写』なるものを悪戯に作ったものが、まことしやかに『寛永武術御上覧之記』として流布したのがもとであるともいわれる。
※青柳武明「『寛永御前試合』のウソとマコト」(尾崎秀樹・宝井馬琴「寛永御前試合」、『歴史への招待』4、日本放送出版協会、1980.2)
明治以後の講談本は論外として、江戸期における「寛永御前試合」の種本には二種あり、試合の日取りも寛永9年11月11日と、同11年9月21日とに分かれている。
順序として9年説の方から片づけるが、こちらは『寛永武術御上覧之記』と称するものが種本で、これは明治26年発行の「風俗画報」56,7の2号にわたり「寛永剣術上覧」なる題名で、活字化もされて居り、あえて珍とするには足りない(中略)
この書は、観戦記の奇妙さを問題にするまでもなく、だいたい、寛永9年なる年は、正月24日に前将軍秀忠が他界し、家光は服喪中ゆえ、かような派手な催しは行われるはずがなく、日取りの設定からして無理で、出場者に至っては、いまだ誕生せぬ伊庭、関口、渋川や、故人となった朝比奈、実在せぬ井伊、石川、吉田一刀斎などを平然と並べる無神経ぶりで、取るに足らぬものであることは、一目でわかる。
ただし、興味を主体とする講談は、もっぱらこれによっているようだ。
さて、次に11年説の方だが、これは「剣道上覧之写」と呼ぶ、至極簡単なものが土台になっている。(中略・内容は勝海舟『陸軍歴史』とほぼ同じ)
観戦記はなく、一見素朴な感じを与えるだけに、かえってもっともらしく映り、日取りの方も一応無理なく出来ているが、既記のごとく、いまだ胎内にも居らぬ伊庭(井場)や関口が出場しているし、宮本八五郎に至っては、実録本の作者が作り出した武蔵の庶子で話の外である。相手の荒木も、このころは仇を追って近畿の各地を転々の身で、はるばる江戸まで出張の余裕などはない。
こうした矛盾に気付いた人は、過去においても無かったわけではなく、志賀理斎の子で、原念斎の養子となった徳斎などは、その先達と看てよかろう。
彼は弘化元年自序の『先哲像伝・武林伝』中の柳生三厳の項に「近頃撃剣師に名を得る、樋口重郎兵衛塾生某より、予が好事の資とて送らる古書一葉あり、真疑ハしらず、珍しけれハ此に記す。三厳の門人又右エ門(荒木)の名氏あれハなり、其書左のごとし」と前置きして「剣道上覧之写」とほぼ同様の勝負付を載せているが、
(中略)著者徳斎は、欄外に「此事、予疑ところ多しと覚申候故、伊庭家に聞合せし処、果して虚作なりとの話也、左も可有之。是水軒、11,2歳の時ならでは年代不合と思ひて聞合せし処、初而瞭然たり、可笑話の為、記し置く」と細字の書き入れをしているのである。(中略)
正保3年生まれで、寛永11年は生前16年の是水軒を「11,2歳の時ならでは年代不合」とした調査の粗雑さはあるにせよ、その慧眼は認めてよいだろう。
徳斎の紹介した資料が、馬庭念流の正統、上州の樋口家から出たものであることは、前記の通りだが、しからば、いかなる経路によって「剣道上覧之写」が同家の手に渡ったものであろうか。
樋口家では、大正11年、家史『樋口武勇伝』を編述し、昭和11年には、その改訂版『念流の伝統と兵法』を上梓しているが、両書とも、十一世樋口定勝の項に『先哲像伝』と同じ組合表を掲げ、末尾は「右在政府日記中故抜抄」となっている。
(中略)昭和11年『念流の伝統と兵法』が刊行された直後、筆者は樋口家の高弟某氏に、御前試合の記録について、何か言い伝えはないか尋ねてみたところ、同家十四代定喬は、いたく松平定信に愛せられ、しばしば、その私邸に招かれていたが、一日、昨今奇なるものを入手したからと、あの勝負付を示されたので、特に許しを得て手写したものだとの回答を得た。
(中略)古老などの話によると、こうした悪戯の犯人は、ほとんどお城坊主どもであったというが、彼らは「濁れる田沼今ぞ恋しき」の落首が示すごとく、温泉暮らしのような田沼時代から、定信となって、一気に冷水へ叩き込まれたような激変ぶりに、忿懣やるかたなく、せめてもの腹いせに、こんなことで定信らを担ぎ、陰では舌を出して、わずかに溜飲を下げていたものだろう。
(中略)さて、寛永11年説が云々される場合、必ず引き合いに出される資料に、勝海舟編するところの『陸軍歴史』巻28に「今該時の日記を得たれば」として、紹介している御前試合の取組表がある。
日時に一日のズレがあり、伊庭を井場泉水軒としているが、これは転写の際の誤りと見るべきで、明らかに樋口家のものと同系統である。
『陸軍歴史』は海舟を主任に、旧陸軍奉行浅野氏祐、旧大坂奉行竹内帯陵、旧奥右筆山下文斎、旧軍艦奉行木村芥舟、旧軍艦頭伴鉄太郎等の協力により完成したものであるが、以上の人たちは、肩書の示すように、いずれも、かつての御歴々であるだけに権威には弱い面がある。
恐らく彼ら「御日記」の文字に眩惑されて、何らの疑問も抱かず、考証を加えず無条件に採用したものであろう。才物勝といえども、所詮は幕臣である。
※吉沢英明「武芸講談の世界」(尾崎秀樹・宝井馬琴「寛永御前試合」、『歴史への招待』4、日本放送出版協会、1980.2)
ここに宝井馬琴講演・今村次郎速記『寛永勇士武術の誉』と題した講談速記本がある。(中略)次の武芸者が御前試合に登場する。
中條五郎兵衛―山田真龍軒、難波一刀斎―金井半兵衛・吉田初右衛門(両者は正雪の名代)、朝比奈弥太郎―伊藤弥五郎、宮本武蔵―山田弥十郎、伊達政宗―秋元但馬守(これは番外の飛び入り)、井伊直人―竹内加賀之助、宮本八五郎―荒木又右衛門、伊庭如水軒―浅山一伝斎、宝蔵院覚禅法―大蔵院宮内、吉岡又三郎―毛利元達、樋口十三郎―穴沢主殿助、高田又兵衛―堤山城守、渋川伴五郎―山本賢東二、大久保彦左衛門―秋山修理(番外)、羽賀井一心斎―兼松又四郎以下旗本十人。
あら筋は試合の模様、各人の伝がいわば豪傑銘々伝として展開し、最後は一同が盃を賜ってめでたしとなる。
(中略)次に田辺大龍(のんのん南龍門、明治44年歿)講演・今村次郎速記『寛永御前試合』(明治28年求光閣)がある。
馬琴に比し登場する武芸者が少なく、人物にも異同があるが、最大の特色は馬琴にない柳生宗冬と由井正雪の一戦である。
すなわち将軍指南役宗冬と町道場の正雪との最後の一戦が講談のヤマ場として構成されており、明らかに馬琴とは異なる演出である。
なお、これ以後の講談は大龍型を骨子とするのが普通である。
そもそも講談は話芸であり、時の演者により改変されつつ成長するものである。ゆえに文学作品と異なり正確な成立年代を知ることは困難である。
速記本としては大龍がやや先行するようだが、成立年代も先行するとは限らぬのである。速記されなかった古い型の御前試合があったかもしれない。
海舟の『陸軍歴史』所収の試合記録(今は虚構であることを問題にせず)には宗冬と正雪の一戦は見えない。
講談の御前試合も正雪の登場せぬ馬琴型が先行し、後に話をおもしろくするために多くの武芸者を「追加公認」して今日に至ったものであろう。
旭堂小南陵のごときは塚原卜伝、笹野権三郎、柳生十兵衛、丸橋忠弥等を含む四十数名の武芸者を登場させている。
よくぞここまでふくらませたと感嘆せずにはいられぬほど豪華な番付に変身させたのである(小南陵講演・山田都一郎速記『寛永武勇伝』『天下十勇士』『徳川御前試合』『誉の太刀風』『寛永勇士揃』『寛永武勇競』『寛永武勇の魁』の七冊本を明治37年前後大阪の柏原圭文堂が刊行、七冊共表題に御前試合の角書を有す)。
既成の豪傑伝を随所に取り入れているが、これは「つかみ込み」と称する講談の常套手段である。
講談は歴史的に不自然であることは問題にしない。何に笑い、何に泣くのか――大衆の夢によって消長するものである。
※勝海舟『陸軍歴史』28(海舟全集第7巻)記載の寛永御前試合(一部加工して抜粋)
撃剣の技は往時我邦士林の最崇尚する処にして上侯伯
の貴より下担石の士に至る迄皆之を研磨せさるはなし
家光将軍には殊に此技を好まれ柳生家を師とし日夕練
究せられたりと亦以て当時其奨励の厚を想ふへし今該
時の日記を得たれは左に録す
三代将軍家光公御世寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上
上覧所剣道立会之面々左之通り
{井場泉水軒(下谷御徒町住人)
負{浅山一伝斎
鎧勝負 {初鹿野伝右衛門
負{朝比奈弥太郎
{竹内加賀之助(播州住人)
負{由井直人(仙台藩)
{仙台黄門政宗
負{秋元但馬守
{堀尾山城守
負{菅沼新八郎
{柳生市之丞(和州柳生の住人)
負{石川又四郎
{佐川蟠龍斎(芝高輪住人)
負{関口弥太郎(紀州郷士)
{石川軍東斎(江戸小石川)
負{松前帯刀(御取立の御旗本)
鎧勝負 {大久保彦左衛門
負{加賀爪甲斐守
合打{樋口十郎兵衛(上州の郷士)
{中條五兵衛(甲州府中郷士)
合打{荒木又右衛門
{宮本八五郎(豊前小倉藩)
合打{芳賀一心斎(備中の郷士)
{難波一刀斎(遠州の郷士)
右之通上覧
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※林田左門と信太朝勝、黒田長政
林田左門は戸田清玄の門人で黒田長政に仕えた。
或時家中の士が5,6人寄って信太大和守を交えて談義するうち、武術に及んだ。
その内の年若の大力者が「兵法は武士の勤道ではあるが強ちこれを学ばなくても、一心さえ臆さなければ功名はできる」と言った。
聞いた左門は「それも一理あるが、心が剛である上に兵法が勝れていれば鬼に金棒である」と説いたが、若侍は納得せず左門に試合を申し込んだ。
左門はこれを受け有り合わせの木の小太刀、若侍は庭木に添えて結い付けてあった一間(約1.8b)の丸太で試合をした。
若侍は丸太を振りかぶり左門の頭上目掛けて打ち下ろしたが、左門はそれを軽く避け、飛び違いざまに小太刀の木剣で彼の額を軽く一打ちして「参ったか」と声をかけた。
手も無く負けた若侍は素直に左門の腕に感心したが、額より血が滲み出てきたので早々その場を引き上げた。
藩主の黒田長政はこの次第を聞いてその若侍を呼び、諭して曰く。
「余も若い時には汝のような事を言って柳生但馬や疋田豊後に打たれたことがある。
林田程の達人を打つ勇気はまことに結構、若い者はそうなくては物の役には立たぬが、林田に負けるのは道理であって恥ではない。
また兵法が上手だから功名をし、素人だから功名が出来ぬということはないが、武士に生まれた者は兵法の修行をすべき筈のものである。
勝負など念とせず左門の門に入って修行せよ」
のち、その若侍は林田門下の上手になったという(初出は真田増誉編『明良洪範』)。
また、左門は二代忠之に仕えたとき、人を殺して逃げた自分の配下の足軽6人を、巧みに諭して6人一度にかからせず、1人ずつ4人まで斬ってこれを捕らえた。
これ程の巧者であったから藩士の多くが林田に学んだが、鉄砲の名人馬爪源五右衛門は見る処があって入門しなかった。
然るに果たして後に林田は罪を得て死罪となった。
参考:堀正平『大日本剣道史』(剣道書刊行会、1934.5)
或書に云。
信田大和は諸岡一羽が門人にて微塵流の祖なり。慶長中黒田長政公へ仕ふ。
或時長政公大和を召し、林田左門と試合せば如何と仰せられしに、勝負は時の都合次第に候と答けり。
左あれば兵法は無用のものにては無は之無やとの仰に、左様ばかりにもあるまじと申上ぬ。
後暇を乞ひ京へ上りしが、黒田家よりは相かはらず年金を賜へり。中国にて病歿せしといふ。
参考:山田次郎吉『日本剣道史』(一橋剣友会、1925.5)
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以下、出場させようと思ったが断念した人々。
◆片山伯耆守久安(1575~1650)
林崎甚助重信に抜刀術を学び、片山伯耆流を開く。
豊臣秀次、周防大内家・吉川家の兵法指南。
山田風太郎『忍法剣士伝』にも出てるけど、彼の父じゃないと年齢合わない(汗
今回のコピペでは強過ぎて出場できなかった稀有な人。
◆丸橋忠弥(????~1651)
由比正雪の片腕と賞された浪人剣客。宝蔵院流槍術の名人で、江戸に道場を開く。
虚構性の強い実録本『慶安太平記』によると、長宗我部盛親の側室の子で、本名は長宗我部盛澄であるという。
母の苗字丸橋を名乗ったという説がある。その辺のエピソードは山田風太郎の『くノ一忍法帖』とかで。
出場できなかった理由は、由比正雪・宝蔵院胤瞬が既に出場している、に尽きる。
◆富田越後守重康(????~????)
富田流の達人にして加賀前田家で13,500石の高禄(剣客としては最高)を誇る、富田越後守重政の次男。名人越後。
晩年痛風を病んでなお名人であったので、中風越後と呼ばれた。
田宮対馬守長勝の枠で出場させようと迷ったが、データ不足で断念。
片山伯耆同様、実力がありすぎるのも出場断念の理由の一つ。
山田次郎吉『日本剣道史』では寛永20年(1643)没、年42(数え年)。
◆伊藤典膳忠也(1603~1680)
詳細は上記の伊藤孫兵衛忠一・小野次郎右衛門忠常を参照。三世伊東一刀斎。
三代・四代将軍に仕えたという(山田次郎吉『日本剣道史』)。
孫兵衛忠一の枠で出場させるつもりだったが、夢想剣の僅差で断念。
瓶割刀で一刀斎に挑む、という展開も燃えるのだが……。
◆梶新右衛門正直・根来八九郎重明
それぞれ小野忠常・伊藤忠也に学んで一流を立てた名人だが、置き所に困って放置。
◆神谷伝心斎・針ヶ谷夕雲
大物だが師匠の小笠原源信斎が出場してるからイラネ
◆高田三之丞
キャラ的にはおいしいけど、師匠の柳生兵庫助が(以下省略
◆鈴木兵太夫吉定
武蔵が一目置く実力者だが、師匠の田宮対馬守が(略
◆薬丸刑部左衛門兼陳
彼の流派は幕末に多くの名剣士を輩出するが、師匠の東郷肥前守が(ry
◆庄田喜左衛門・木村助九郎・出淵平兵衛・村田与三ら(柳生四天王)
柳生枠多過ぎなんだよ。一派立てられるほど強いし。
ガーレン相手のアナコンダ枠で出場がちょうどいいか?(笑
◆榊修羅之介・六波羅蜜たすく
創作キャラは反則だろ……常識的に考えて……
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終わりです。
以下、雑ですがまとめ。
|
身分・出身 |
1634年当時の年齢 |
|
| *2 柳生但馬守宗矩(1571~1646) |
幕臣・将軍家師範 |
63 |
新陰流系 |
| *3 吉岡源左衛門直綱(????~????) |
京都の人 |
55前後? |
京流(西国剣術) |
| *4 東郷肥前守重位(1561~1643) |
薩摩鹿児島藩・島津家 |
73 |
示現流(神道流系) |
| *5 上泉大学秀秋(????~1647) |
尾張徳川家 |
60前後? |
抜刀術 |
| *6 巌流(????~1602/1612) |
浪人(長州の人?) |
70前後? |
中条流系? |
| *7 宮本伊織貞次(1612〜1678) |
豊前小倉藩・小笠原家 |
22 |
武蔵流 |
| *8 由比張孔堂正雪(1605~1651) |
浪人(江戸在住) |
29 |
軍学・武蔵流・手裏剣術・鎖鎌術 |
| *9 関口弥六右衛門氏心(1598~1670) |
紀伊徳川家 |
36 |
抜刀術・柔術 |
| *10 水野出雲守成貞(????~1664) |
幕臣 |
30前後? |
|
| *11 浅山一伝斎重晨(????~????) |
上州の人? |
70前後? |
総合武術 |
| *12 陳元贇(1587~1671) |
明国浪人 |
47 |
中国拳法 |
| *13 幕屋与右衛門(????~????) |
浪人(江戸在住) |
20前後? |
新陰流系 |
| *14 伊藤一刀斎景久(1560~1653) |
浪人 |
74 |
一刀流祖 |
| *15 宝蔵院胤舜(1589~1648) |
大和の僧 |
45 |
宝蔵院流槍術 |
| *16 宮本武蔵玄信(1584~1645) |
浪人(豊前小倉藩の客分) |
50 |
武蔵流 |
| *17 松山主水大吉(????~1635) |
肥後熊本藩・細川家 |
30~40? |
念流系(中条流系?) |
| *18 柳生権右衛門厳倚(????~????) |
陸奥仙台藩・伊達家 |
50前後? |
新陰流系 |
| *19 田宮坊太郎(1626~1645) |
浪人(讃岐丸亀藩・生駒家) |
8 |
新陰流系 |
| *20 山田浮月斎勝興(????~????) |
九州の人(肥前唐津?) |
60前後? |
新陰流系 |
| *21 夢想権之助勝吉(????~????) |
筑前福岡藩・黒田家 |
50~60? |
神道流系 |
| *22 樋口十郎兵衛定勝(1577~1655) |
上州の人 |
57 |
念流 |
| *23 伊藤孫兵衛忠一(1604~1672) |
水戸徳川家 |
30 |
一刀流系 |
| *24 林田左門(????~????) |
筑前福岡藩・黒田家 |
40~50? |
中条流系 |
| *25 小笠原源信斎長治(????~????) |
浪人(江戸在住) |
70前後? |
新陰流系 |
| *26 根岸兎角(????~????) |
浪人(筑前福岡藩・黒田家) |
60~70? |
神道流系 |
| *27 小野次郎右衛門忠常(????~1665) |
幕臣・将軍家師範 |
25前後? |
一刀流系 |
| *28 田宮対馬守長勝(????~????) |
紀伊徳川家 |
40前後? |
抜刀術 |
| *29 荒木又右衛門保知(1598~1638) |
浪人(大和郡山藩・松平家) |
36 |
新陰流系・神道流系・中条流系 |
| *30 大久保彦左衛門忠教(1560~1639) |
幕臣 |
74 |
|
| *31 鍋島紀伊守元茂(1602~1654) |
肥前小城藩主(未成立) |
32 |
新陰流系 |
| *32 柳生兵庫助利厳(1579~1650) |
尾張徳川家 |
55 |
新陰流系 |
| *33 柳生十兵衛三厳(1607~1650) |
幕臣 |
27 |
新陰流系 |
| *34 河合甚左衛門(1594~1634) |
浪人(大和郡山藩・松平家) |
40 |
不詳 |
| *35 桜井半兵衛(1611~1634) |
浪人(摂津尼崎藩・戸田家) |
23 |
神道流系 |
| *36 土子泥之助(????~????) |
浪人(詳細不明) |
60~70? |
神道流系 |
| *37 小野次郎右衛門忠明(1560~1628) |
幕臣・元将軍家師範 |
(故人) |
一刀流 |
| *38 柳生左門友矩(1613~1639) |
幕臣 |
21 |
新陰流系 |
| *39 愛洲移香斎久忠(1452~1538) |
伊勢の人・故人 |
(故人) |
陰流祖 |
| *40 松林左馬助永吉(1593~1667) |
関東郡代・伊奈氏 |
41 |
神道流系? |
改めて見ると新陰流系の剣士(特に柳生)が多いな……。
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